YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson393
 人を説得する力――1 説得のゴール


説得する力について本を書きませんか、と
依頼にこられた編集者さんが、こんなことを言った。

「みんな、なぜもっと自分で
 説得しようとしないんだろう?」

その編集者さんは、
いわゆる大ヒット書籍を最近手がけられた人なのだが、
依頼=著者を説得に行く、ときも、
直接、自分の力で、ぶつかって行くという。

でも、そのあたりまえのことが、
近ごろ、どうもあたりまえでないようで、

人を説得するというとき、
いきなり上司やツテ、つまり「他力に頼ろう」としたり、
なんかウマイ手はないかと
「外堀から埋めていく工作」をしたり、
うまく行かなそうだと「すぐあきらめて」しまったり、

まっとうに自分の力で、直接相手を説得していいんだ、
という気持ちさえ、いま持ちにくい人が多いようだと言う。

説得のスタートラインに立つ自信すら育たなくなっている、

ということを私も憂う。
小論文というフィールドで長く鍛えられてきた私、
小論文は「人を説得する文章」だから、
この経験を活かして何か役にたてたらと、

今日から、「不定期」のシリーズで、
「人を説得する力」について、折に触れて、
アップしてみたい。

1回目の今日は、「説得のゴール」について。

みんな何を目指して説得しているんだろう?

「自分の言い分を通すことだ、決まってるじゃないか」
と言われそうだ。

でも「とにかく勝ちゃぁいい」というゴール設定が、
かえって、他人に頼ったり、
こそくに外堀を埋めるという手段に走らせたり、
「説得の技術や自信」を育んでいく
せっかくの機会を奪っているのではないか、と私は思う。

「説得のゴール」で、反射的に浮かんだのが落語だ。

先日、寄席で三遊亭歌之介さんが、
医学的根拠はないのですが‥‥と断ったうえで、
「笑いは病気にいいとされるが、
 とくに落語の笑いは体にいい」
と言われたと、
生命第一人者の教授との対談から話しておられた。

これは自分の実感だが、
リズムやテンポだけで笑わされてしまうギャグの笑いより、
落語の笑いは満たされて、余韻がつづき、
いかにも体にいい気がする。

なぜだろう?

「説得のゴール」で、もうひとつ思ったのが、
ライターSさんのことだ。

私が尊敬するライターで、
数々のうるさがたの著者をも、一発で落としてきた、
いわば「説得の達人」のような人がいる。

例えば、ある著者はとても気むずかしい人で、
語りおろしで本を出すのに、
気に入らないライターを何人も辞めさせていた。

版元は、
「もうこのままでは本も出ないかもしれない」
と弱りはて、そこでSOSを出したのがSさんだ。

Sさんは、
自分の力量がどうだとか、実績がどうだとか、
ぜひこの本を私に書かせてくれだとか、
くどくど説得するまでもなく、

一発で、その難しい著者の心を動かし、
絶大なる信頼のもとにライターに起用され、
あっという間に本を書き上げてしまった。

「Sさん、いったいどんな手を使ったの?」

と、ツテや外堀からはいる人は思うかもしれない。
でもSさんがずっとやりつづけていることは、
「著者の全作品を読んでからアプローチする」
ということだ。

たとえそれが何十冊、ダンボール何箱になろうとも、
Sさんはその人が書いた本、関連資料を全部読む。

その上で、
「世間ではこういうふうに見られているが、
 この人は本当はこういうことを
 言いたいのではないか‥‥」
「この人が最も言いたいことは‥‥」
と、相手が言いたいことの核心、そのまた核心、
を探っていく。

そのようにして理解、解釈しぬいた核心を、
「あなたはこういうことを言いたいのではないか」
「私はあなたのこういうところを興味深く思いました」
と届けるから、
うるさがたの著者もトロトロになって、
「この人の言うことを聞こう」と思うのだ。

本を書く人は、ふだん人からよく理解されているだろうと
思われがちだが、
著者が言わんとすることでなく、
ただ反応したいところに反応する人だっているし、

難しい本や、専門的な本を書いている人は、
それなりに読む人にも知識や読解力を求めるので、
これだ! という理解者に恵まれる機会も少なくなる。

わかってほしいが、なかなかわかってもらえない
という部分はどんな人でももっている。
その自分の内面のかゆいところにピタッ、
とはまる理解を言葉でくれるから、
著者は、知的にも、心も、納得がいって、
Sさんの言い分をするりと飲み込むのだろう。

自分の言葉が相手の「腑」に落ちること。

そこが説得のゴールではないか、
と私は思う。

私は落語はビギナーなゆえ、
えらそうなことは何も言えないが、
それだけに、これまで聞いてきた笑いと何かが違う
ということは敏感に感じている最中だ。

落語の笑いは腑に落ちて、
五臓六腑から、わはっは!
と笑いが湧き出るように感じた。

その対極にあるのが、
腹を経由せず、皮膚感覚に近い、というか、
反射神経に近いところで笑えてしまうギャグだ。
お決まりのオチがあったり、
お決まりのオチにリズムがついていたり、
テンポがよかったり。
へたするとオチの前の部分が全然のみこめていなくても、
オチのリズムのよさだけに体が反応して
笑っていることもある。

どっちが高級、どっちが低級というつもりはない。

でも、落語は、話であり、言葉を大切にしている。
しばらく「間」があって笑えることも多い。
その「間」のところで、言葉の意味を解釈したり、
伏線を思い出したり、

「ああそうか!」

と言葉がすとーん! と腑に落ちたところで、
わはっは! と笑いが湧き出る。
頭を経由して、腹に落ちてくるというのかな。
知力と、心と、腹が働いて、
言葉をストーンと飲み込むから、
五臓六腑から笑える。その瞬間、
腹の底も、頭も、心も、全部笑っているから
体にとてもいいように思う。

説得もそんなふうに、
自分の言葉がすとーん! と相手の腑に落ちる感じ、
「ああそうか!」と相手が腹から納得し、
目を輝かせる瞬間をゴールにがんばりたい。

説得の達人は、ゴールの志が高い。

Sさんを見ていてそう思う。
人を説得しに行くときは、必要に迫られているし、
私たちは弱く、コミュニケーションに自信がない。
だから、つい、せっぱつまって、
「結果さえ出せれば、手段は少々どうでも‥‥」
「相手が腹から納得せずとも、
 とにかく承諾さえ取り付ければ‥‥」
と低いゴールを描きがちだ。

それで、ツテやコネをたよったり、
ひどい場合には、
「受けてくれないとあなたに不利になりますよ」と
おどしがまえで相手を動かそうとしたり、
高条件で釣ってみたり、
なかなか相手の心が動かないと、忍耐が切れて、
「こちらが正しい=あなたが間違っている」
と口論で打ち負かして、従わせようとしてみたり。

でも、そういうアプローチでは、
結果が出ても、出なくても、相手の心になにか
「腑に落ちないもの」が残る。
やがてそれが不信感になり、
人間関係に「しこり」を残すこともある。

何より、自分が、こそくなアプローチをして断られた場合、
「悔い」が残るのではないか。
「同じ失敗するなら、人をあてにせず、
 自分自身の力でやればよかった」
「同じ失敗をするのなら、
 まっ正直に自分の気持ちを伝えていけばよかった」
「同じ断られるのなら、お互いむやみに消耗し、
 むやみに傷つけあうことはなかった」と。

私がときに弱気になって、ツテやコネを考えたり、
外堀を埋める手はないか、と迷うとき、
Sさんは、コツコツと相手の本を読んでいた。

それは、相手の内的世界のマップをつくるような作業だ。

最初の作品から今まで、全作品を読めば、
相手の歴史=タテ軸が頭にはいるし、
代表作から意外な作品まで読むことで、
相手の思考のふり幅=ヨコ軸が理解できる。

そうしてタテヨコ描いたマップの中で、
「相手がいちばん言いたいことはなにか」を理解し、
その本丸に、「自分が最も言いたいこと」を届ける。
そういう直球勝負を挑んできた。

「恩のある人の仲介だから断れなかった」とか、
「リクツで言い負かされてつい従った」
というような外堀でなく、
自分の内的世界のツボを押されたから、著者は、
腹から納得感をもって、Sさんの言葉を受け入れるのだ。

あまりに仕事のできるSさんは、
業界では天才のひと言で片づけられがちだ。

でも、Sさんがだれよりも
相手理解に時間をかけていること、
文章を読むにも、場合によっては
3回5回と繰り返して読むなど、
人一倍努力をしていることを私は知っている。

Sさんのように全作品を読むことができなくても、
せめて1回の話し合いで、
相手の言葉を一定時間とおして聞く、
相手の言っていることの全体像をつかむ、
その中で、相手がもっとも言おうとしていることをつかむ、
などの努力は惜しまずしよう、と私は思う。

充分に相手を理解しようとつとめ、
そこに正直な気持ちを伝えようとし、
相手の腹からの納得感を目指してやったことなら、
ぶつかっても変な消耗にはならないし、
たとえ失敗しても、お互いの理解は深まる。
経験が、スキルとして積みあがっていく。

「結果を取り付けるより、相手の納得感」

スキルがない分野には、せめて志を高くもっていこう!
と私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2008-04-09-WED
YAMADA
戻る