YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson383 表現の始まりと終わり


先日、このコラムの古くからの読者に会い、
「はじめのころのコラムの方が、
 より胸につよく来るものがある」ということを言われ、
ほんとにそうだと思った。

2000年にこのコラムを書きはじめたころの自分は、
書き方を知らず、かげんもわからず、経験もなく、
へたくそで、4日も5日もかかって、
この1本のコラムを書いていた。

それでも、そのころの自分が唯一の、
そして、いまだに超えられないライバルだ。

尊敬する書き手は? と問われれば
「ものを書きはじめたころの自分」と答えるだろう。

当時の自分は、所属も無く、肩書きもなく、収入も無く、
社会参加の道も見つからず、
人からも、仕事からも干され、
一日の唯一の楽しみは、
午後四時過ぎ、
郵便配達のバイク音が響くのをまちかねて、
アパートの集合ポストに郵便をとりにいくことだった。
一通の手紙も、ダイレクトメールも、
来ていないことが多いのに、
なにかを待ってないとたまらない日々だった。

そんな、
「自分は何者か」もブレまくり、
「アイデンティティ」もグラグラの私だったが、
当時の自分はもしかしたら、
「何を表現するか」の点において、
ブレがなかったんじゃないか、そんな気がする。

何を表現するか?

歌い手は声をからしてまで、
絵描きは腱鞘炎になってまで、
それでも表現しようとしているものは何だろう?

まず、読者のこんなメールから読んでほしい。


<これだけしか歌えない自分>

先週の コラム「人をたのしませる勇気」には、
私も深く感じるところがありました。

私は、歌を歌っています。
いわゆるクラシック、オペラや合唱曲です。
自分の歌でギャラをいただくこともありますが、しかし、
音楽大学を出たプロフェッショナルではありません。

子供の頃から歌が上手いと褒められ、自分も音楽が大好きで
音楽の専門教育を受けること、
考えなかった訳ではありません。

しかし、実家の経済的な事情、周囲の反対、そして何より
好きなものにまっすぐ向き合えなかった自分が、
その道に進まないということを選びました。

いい歌を歌う、ということを、
「こんなにすごい歌を歌える」「こんなにいい声が出せる」
ということだ、と思っていたのです。
自分にはない声の出る、自分には歌えない歌を歌える、
そういう優れた人たちに妬みを持っていたのです。

そして、自分がそういう歌を歌えないのは
「専門教育を受けていないのだから仕方がない」
のだと思いこみ、
「この境遇でこれだけ歌えるんだからすごいだろう」
という、ものすごく狭い世界に自分を囲い込んでいました。
それでいい、と思っていました。

それでも音楽の仕事を捨てきれず、コーラスを歌いながらも
ずるずるとある音楽事務所の事務仕事を
続けてきた20代半ば。
突如として、
「もう私は歌いたくない」
という思いが私を襲いました。
自分は歌う価値などない人間なのだ・・・
なぜだかわかりませんが
その思いに囚われ、
頑なに歌うことを拒んでしまったのです。

その後様々な出会いに恵まれ
8年後にようやく自分の歌を再開したとき、
初めて気づいたこと。

歌というのは
「こんなにすごい歌を歌える、だから聞いてください」
ではなくて
「私にはこれだけしか歌えません、でも、聞いてください」
という表現なのだな、ということです。

勉強すればするほど、練習すればするほど、
「こんなに歌える自分ってすごい」
という境地からはどんどん離れていきます。
「自分にはできないこと、でもやりたいこと」
「今の自分にはわからないこと、でもわかりたいこと」
が次々現れてきて、自分を苦しめます。
本番をやる、なんて約束、しなければよかった‥‥
毎回、本番の前日には必ずつらい気持ちになります。

でも、間違いなく、苦しみの中から生み出される歌の方が、
周囲の方には喜んでいただける、また、録音としても
素晴らしいものとなるのです。

「これだけしか歌えない」自分を、皮を剥いて剥いて
これ以上は剥けないところまではぎ取って、舞台にのせる。
ほんとうにほんとうにつらくて怖いことなのですが、
その勇気が生まれて初めて、
ほんとうの歌の喜びを知ったような気がしています。

ズーニーさんの書かれた「なけなしの部分」は、
私にとっては「これだけしか歌えない自分」ですし、
タイトルの「人をたのしませる勇気」は、そのまま
「皮を剥ぎ取った私自身を舞台にのせる勇気」なのです。
記事の中にも
「はだかになっておまえはどこまで勝負できるのか?」
という言葉がありましたね。同じ心境です。

(読者アベさんからのメール)



先日、ミュージシャンの福田遊太さんにお会いしたときに、
「人は表現することで、自分の中にあるものを
 空気に触れさせないと、生きていけない生き物だ」
ということを言っていた。

だから、音楽をやってるからすごいとか、
いやアートだからすごいとか、言う人がいても、
彼には、そこに上下の区別はない、
音楽を通して自分がやっていることは、
日常的に人がやっていることとまるで同じだと言う。

たとえば、コロッケ屋のおじさんが、
コロッケをあげる。

おじさんが、ただ自分のなかで
そういうコロッケをつくったらいいと思っていても、
実際に、コロッケをつくって表現しなければ、
その思いは空気に触れることができないし、
人にもおじさんがどういう人かわからない。

だから、おじさんは、毎日、
いもをつぶして、ころもをまぶして、油で揚げて、
「おれはこうです」と言っている。
まわりの人も「この人はこうなのか」とわかる。

毎日毎日コロッケをあげて、
「おれはこうです」「おれはこうです」と言って、
まわりも、「そうなのか」「そうなのか」とわかる。

そんなふうにして、人は自分のなかにあるものを
空気に触れさせることで、
「私はこうです」と表しながら毎日、毎日くらしている。
と福田遊太さんは言った。

聞きながら、ああ、と腑に落ちた。
表現の「もとで」は自分なんだな。
うまく出せようが、出せまいが、
出して表さなければ、人に理解されないし、
自分自身でもぼやけてくる「私はこうです」というもの。

だから、表現のはじまりは自分だし、
たとえものすごく伝わって伝わって伝えきれたとしても、
相手に伝わるものは自分以上ではないんだ。

だから、自分がつまんない奴になってしまったときは、
「私はこうです」と出たものも、つまらなくなるし、
それもあたりまえで、うそのない表現だ。

それもいい、うそのある表現よりよっぽどいい
と、いま私は思う。

だから、表現を面白くしようと思ったら、
時間がかかっても、生きて、呼吸して、日々何かが変わり、
自分そのものが高まっていったときに、
そこから出て空気にふれていくものも面白くなる。

私はこうです。

もともと表現は、とっても原始的に、
「私はこうです」を伝えわかってもらう、
日常生活ぎりぎりの
なきゃならないものとしてあったはずだ。

「それぞれが持っている小さな大切なものが大切なのだ」

とは、先週のコラムを読んだ読者からの
名も無いメールにあった言葉だ。
ほんとにそうだ。
一人一人ちがうから、
まったく同じ人などひとりとしていないから、
人は出したいし、外もそれを待っている。

すごいものを書いてやろう、などと、
どっか遠くに表現するものを探しにいったとたん、
言葉は表現の原始的で切実な欲求から離れ、
血が通わなくなり、人を揺らさなくなる。

あの、2000年にコラムを書きはじめたとき、

私は、崖っぷちにいた。
表現しなければ、「無」になるぞ、という
プレッシャーに押しつぶされそうだった。

仕事も、肩書きも、所属もない。
おまけに、自分の唯一の表現手段であった「編集」の仕事を
いまやってない、とくれば、
まわりの人が、「おまえは何者なのか」と、
自分をうさんくさがってもしかたがない。
でも、「何者なのか」と周囲の値踏みするような視線が
堪えられなかった。

でも、もっと堪えられなかったのは、
自分の存在がどんどんかすんでいくなかで、
やがて無になることだった。

人が見ても、なんの足跡も、想いもない、
ただのおばさんとして、とおりすぎられることだった。

表現しなければ、無。

でも、だからこそ、
コラムを書いてどうこうしようとか、
社会にセンセーショナルを巻き起こそうとかいう
余裕もなく、

もっとも原点に立ち返って
「私はこうです」と言いつづけたのだと思う。

私をあやしいもののように見ないでください。

私を値踏みするように見ないでください。
かといって、私を通り過ぎないでください。

いまは、何者か名のれません。

いま仕事はしていないけど、

これまで編集者として、
高校生の小論文の教育をがんばってきたのです。

「考える力」の教育をしてきました。
人がものを考える力を、生かしたり、伸ばしたり、
力の限りサポートをしてきたのです。

私には志があります。

自分の頭で考え、自分の想いを、自分の言葉で伝える人が、
一人でも二人でも増えたら、
世の中はもっとおもしろくなると。

私には伝えたいことがあります。

あなたには考える力がある。
あなたには書く力がある。

私を無視しないでください。
どうか私にもう一度、教育の仕事をさせてください。


そんな、崖っぷちのころの自分の表現が、
いま以上に人に勇気を与えていたことに、
表現とはなにか、いまさらのように教えられる。

「私はこうです」

と、いまの自分がもっとも根っこのところで
訴えているものはなんだろう?

読者のアベさんの言葉を借りると、
崖っぷちにいなくとも、
剥いて剥いて剥ききることで
それに出会えるんだと思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2008-01-30-WED
YAMADA
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