YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson382 人をたのしませる勇気


話が進化するってどういうことだろう?

たとえば人前で話をするような場合、
その話のレベルがあがる、ってどういうことか。

つっかえずスラスラ言えるようになることか?
より知識がそなわることか?

無意識にもその人に
人をたのしませる覚悟がそなわったとき、
話はレベルアップする。
そんなことを思わずにはいられなかった。

先日、大学生のスピーチを
80人分まとめて聞く機会があった。

「進化している」

3ヶ月前に比べ、学生の話に
「進化」を感じずにはいられなかった。

3ヶ月前、
慶應大学湘南藤沢キャンパスを訪れたとき、
「慶應」ときいてやっかみもあり、
恵まれたお坊ちゃん、お嬢さんばかりなんだろう
と思っていた。

彼らは、海外経験も豊富、
外国語と人工言語を自由にあやつり、
起業している学生や、社会活動をしている学生も多く、
ここは未来かとおもうほど自由で、うらやましく見えた。

ところが初日にして、
そのイメージは突き崩される。

「彼らも、いっぱいいっぱいじゃないか‥‥!」

初日に提出された彼らの文章は、
ひと言で言って、痛みに満ちていた。

そこには、自己肯定感がもてず、
へこみながら、傷つきながら、
それでもなんとか、どうにか自分をふるいたたせて、
やっとのことで前に進んでいる学生たちの姿があった。

自分の先入観のバカさかげんを恥じた。

そうだよなあ‥‥。

世に優秀と言われる人の歩く道には、
自然に、「できる人」たちが集まってくる。
入試もトップチームの争いなら、
優秀な親を持つ人も多く、
友人も、先輩も、後輩も、先生も‥‥。
しかも勉強のできるできないでは片づけられない、
経験や人格を磨いてきた人たちに囲まれ‥‥となれば、
自己肯定感が育つひまもない。

優秀といわれている大学にこそ、劣等感がある。

失敗をするにしても、
期待され、望まれた高みから落ちるほうが、
ずっと、ぺっしゃんこになるものだ。

その、
へこみながらも自分をふるい立たせて
どうにか前に向かっている学生たちの文章を見て、
どうしてか私自身がものすごく励まされていた。

学生の言葉を借りれば、彼らは
「がんばっている人のことを悪く言わない」。

どうしてか自然に、がんばっている人を
助けよう、支えようという姿勢がある。

表現のレッスンにあたって、
彼らとまず目指したのが、
「自分の言いたいことが言えるようになる」こと。
それが3ヶ月前。

その段階でも学生のスピーチは充分面白かった。

どうしてか、学生が、
人がどう思うかを気にせず、
どう思われるかの恐さを乗り越え、
ただ「自分の言いたいことを言っている」、
ただそれだけで、
聞く方に独特のカタルシスというか、
爽快感があった。

だから、それから3ヶ月後、
最後のレッスンでも、
私は、これまでどおりに話してくれればいい、
それで学生のスピーチは
充分おもしろいはずだと思っていた。

ところが、学生たちの最後のスピーチは
何かがちがっていた。

たいそうな言葉だけど、
「進化」を感じずにはいられなかった。

話が進化するとはどういうことか?

ひと言で言って「与えられる感」が増大した、
という感じだった。

評価をつけようとして、
スピーチを聞いていた私は、
正直その感覚に、めんくらった。

たとえば、自分の中に
おおきな渇いたプールがあるとして、
潜在的に、いつも与えられない、満たされない
と思っていたとする。
そこにじゃんじゃん、ばんばん水が注がれたら
どうだろうか?

与えられて、与えられて、
胸が痛いほどに与えられる、
自分は今までそんな感覚になったことがない。

学生たちは、ばんばん与えてくる。
意識的なのか、無意識なのか、
聞く人に与えよう、与えようとしてくる。

ある学生は、

自分は慶應大学、そしてコロンビア大学にもいった、
ディベートも勉強して自信があった。
就職は大丈夫だろうとタカをくくっていた。
ところが、ふたをあけてみると
自分はどこにも就職できなかった。
慶應だとか、コロンビアだとか、
人は、そんな経歴で人をみるのではない。
企業の人がみているのは、
ただその人と本当に働きたいかどうかだけだ。
慶應がなんだ、経歴がなんだ、経歴をとりさって、

「はだかになっておまえはどこまで勝負できるのか?」

と、用意してきた原稿を捨てて、
その学生は、その場でわきあがった想いを話した。

ある学生は、

自分は8年間大学にいた。
8年経って自分は27歳。
就職はなんとかなるだろうと思っていた。
ところが就職活動はとても厳しかった、と。
それでも、8年いたことに悔いはない、と言い、
最後にこういった。

「まわり道には意味がある。」

ある学生はこう言った。

彼女が留学で海外に行っている。
通信手段がメールしかない。
実際、メールという手段に限られて、
なんとか自分の想いを伝えよう、
コミュニケーションをとろうとするのはとても難しかった。

でもそうするうちに、制限の中で、
自分の感覚が研ぎ澄まされていくことに気づいた。

メールで伝えるには、言葉に対する感覚を
研ぎ澄まさなければいけない。
名刀を磨くように、
自分の言葉に対する感覚が磨かれていくのを感じている。
と、そして言った。

「どんな手段でもいい自分の感覚を磨いてほしい、
 そして、研ぎ澄ましてほしい」と。

ひとつひとつのスピーチを聞いているうちに、
私の中で、ごまかしようもなくひらかれていくものがある。

「自分はもっとできる」
「だいじょうぶ」
「まちがってない」
「まだまだやれる」
「まだまだこれからひきだされる能力がある」
「もっと前に進める」

そういう気持ちに、
自分のプールが満ちてくる。

評価をつけるからと抑えても、抑えても、
心は反応し、受け取り、ひらかれ、
わくわくと歓んでいく。

だれひとり、もてる知識をひけらかす人も、
豊富な経験を披露する人もいなかった。

「なけなし」の部分で戦っていた。

彼らが話した立脚点は、
たとえば優勝経験とか、留学経験とか、
自慢の親とか、身につけた知識とか、
得意分野とかではなかった。

彼らが、聞く人に無意識に与えよう、与えよう
としていたものは、

彼らがいちばん持っていないもの。
自分をふるいたたせようにも、
持ちあわせが少なくて、
やりくりにいつも四苦八苦していたもの、

彼らが聞く人に与えようとしていたものは、
「自信」や「勇気」だった。

自己肯定感が低く、だから自分に足りない、
それでも、なけなしの自信と勇気を
彼らは惜しみなく人に与えようとした。

私は、充分に受け取り、満たされ、
やがて目からあふれていった。

人がどう思うかを気にせず、
自分の言いたいことを言うというのは、
とても勇気がいることだ。

でもそのハードルを越えた人が、
もっと強くなるのは、
人を意識し、人に向かったときだと私は思う。

ちいさな自分に何が言えるかと、
人に向かって、外に向かって、考え抜いたとき、
そこに何か「人に与える価値」が生まれる。
それが進化だ。

そして、与える価値は、
自分が豊富にもっているから、
豊富に生めるというものではなく、
むしろ、なけなしの部分にこそ、
激しく強く生まれるものだと、
私は今回教えられた。

ありがとう!

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2008-01-23-WED
YAMADA
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