YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson378
 無いものは伝わらない 4


書くことがなにもないとき、あなたならどうしますか?

文章指導をしている私は、
生徒から「書くことがない」と言われ、

「それは平和でいいことだよ」とか、
「書くことがないならそれを書こう」などと、
一度はその状態を、良しとしようと考えた。

でも、思うそばから何かが違う。

「書くことがない」と言われたときに、
安易に「無い」として
先にいくことはよくないんじゃないか?

あなたならどう考えるか?

この問いかけに、
読者からいいメールがどんどんくる。
正直、その質の高さに驚いている。

今週もまず、読者のメールから読んでほしい。


<書けた! という凄まじいまでの驚き>

最近、自分でも驚くほど、書けた!
と思ったできごとがありました。
ある仕事のための書類です。

前回、うんうん苦しみながら書き上げ、
出来上がりにもあまり納得が行かなかったことを
鮮明に憶えているだけに、本当に強烈な驚きでした。

応募先が書けと言っているその意図も
正確に汲み取れたと思うし、
自分の過去、現在、未来のつながりの中で、
さらにその仕事がどうつながっていくのか、
自分の中から流れ出るように書けたのです。
合格するとかしないとか、そういうことを越えて、書けた!
という凄まじいインパクトと爽快感がありました。

前回、あんなに苦労して書いて、ドキドキして発表を待ち、
やはり落ちたのですが、今回は全然ドキドキしないのです。
ただすごく爽快なんです。不思議です。

なぜ前回はあんなに大変で、今回はこんなに爽やかなのか。

それは、自分の意志の核をつかんでいるから。
これを私は、やる! という「これ」は未来にあって、
今具体的に何かをつかんでいるのではないのですが。
張りぼての紙の玉のように、
いろいろな思いが周りにいっぱい付いていて、
まぎらわしくて仕方が無かったのですが、
それらを剥いで剥いで、
最後に残った小さく光る玉みたいなもの、
これだ! というのを見つけたのです。

今後も何度も自分や、自分の周りの世界の再構築を
必要とすると思います。
でも、自分の意志そのものから「ブレる」ことは
もう無いと思います。

私は、「書きたくないなあ」と今は思っているその人が、
今は表現しない自由、だって
あったって良いと思っています。
それ自体が、張りぼての紙を剥がしていく行為
なのかも知れませんが、
あまり無理をすると、
逆に紙を余計に付けてしまうことにもなると思います。
(さぬきほっち)



張りぼての中から意志の核が姿を表す、
自分の書けたときの実感に照らしても腑に落ちるメールだ。

私はこのメールの、
「自分でも驚くほど書けたとき
応募先が書けと言っているその意図も正確に汲み取れた」
とあるのに着目した。

「条件違反にすごいものなし」

これは、私が文章の審査などを通じて
ここ最近思っていることだ。
どういうことかというと、
例えば、「最近、感動したこと」というような課題
が与えられたとき、
「最近」+「感動したこと」を書くのが条件だ。

でも、必ず条件を守らない人が出てくる。

条件やぶりは、いいか? わるいか?
私自身は、クリエイティブなものなら
歓迎という構えでいる。

私自身が、型にはめられることも、優等生的な答案も
好きではないので、
課題の条件から逸脱したって、
「こんな課題つまらない」と課題そのものに反論したって、
面白ければいつでも受け入れるかまえがある。

ところが、型破りの天才への期待をよそに、
条件違反にあまりいいものがないのだ。

「私には最近感動したことがない」とか、
「感動といわれて、私には書くことがない」とか、
「感動したことを書かせることに
 何の意味があるのか」とか、
「私は書くことがキライだ」とか、
そんな書き出しで、
みんなと同じ条件に並ばずに書いている答案に、
突出したいいものがあるか、というとそうではなく、
書いた人には失礼だが、
いわゆる「斜にかまえているだけ」じゃないか、
と思うものがどうしてか多いのだ。

「面白いなあ!」と思う答案は、
ちゃんと与えられた条件を守って書いている。
これはどうしてだろう?

ヒントになりそうなメールをたくさんいただいている。
一部しか紹介できないのが悔しいが、ぜひ読んでほしい。


<書いたすべてが何かになる>

冷蔵庫は空っぽではないのに、
書くことがないように思うのはどうしてなのか。

本当に伝えたいこと、「大切な何か」は
言葉で表すにはたぶん大きすぎるのだと思います。

大きすぎるから、
自分が今持っている材料で、
書けることを書くことから始めて、
読者に「自分」という情報を与え、
そして持っている材料を自分はどう下準備して、加工して、
そしてどんな献立を作るつもりなのかを示し、
そしてやっと、まだ完成していないご馳走を、
完成したらこうなります、
と読者に伝えるようなものなのではないか、
少なくとも、私にとってはそんな感じです。

「いつか自分だけのオリジナルのレシピを作りたい。
 自分だからこそできた、というものを作りたい。
 それは何でもいいけれど何かであってほしい。
 今持っているのは誰もが持っている
 ありきたりのものだけれど。」

大切な何か。私には「志」のようなものです。

それは実態のないもので、
自分にも何だか分からないもので、
だからその輪郭を描くように、
自分が表現できるものを掻き集めて「こんなものです」
とやるしかないんだと思います。

表現するというとき、つい人とは違うことを、
と考えてしまいそうになりますが、
他人に伝わる表現というのは、ありきたりというのか、
あたりまえの表現でなくてはいけないのかもしれません。

あたりまえの動作をすることで、
あるいは積み重ねることで、はじめて伝わるもの
というのが本当に価値のあるもののようにも思います。

最近は生活に追われ、何でもいいから書く、
ということをしなくなりました。

久しぶりに書こうと思うと書けないということが多く、
どんなに些細な事柄でも毎日書いて繋ぎとめておくことが、
大きなものを書くときに役に立つのだなあ、
とつくづく思います。

書くことがないなら、
何でもいいから(自分が)書けることを無理せず、
ずーっと書き続けたらいいと思います。

いつか書くことが見つかるのではなくて、
その書いたすべてのことが何かになるような気がします。
(いずみ)



<しのぐ先に>

書くことが無くても、
とりあえずその状況をしのいでいかないと
いけないときってありますよね。

そういうときは、
それでしのぐしかないのかなぁって思います。
「無い」状態が永遠に続くかどうかはわからないし、
今ないと思っても、その先の自分がどうなっているかは
分からないから、

とりあえずは今、今の自分でしのぐ、
そうやって日々を積み重ねていったら、
先に何かは「ある」んじゃないか
(MEGUMI)



<ないときの出発点>

この間からの『書くことがなにもないときに』を
読んでいて、ですが、
みんな、こんなに「書くことがない」ことについて
書いている。
つまり、このテーマで、
ズーニーさんという“読者”に対しては、
頼まれなくても書くことがあったわけですよね。

書くことがないとき、
書くことを考えるんじゃなくて、
書くテーマ、書く相手、を考えることを
出発点にしたらどうなのでしょう。
何についてなら書きたいか、誰になら書きたいか、‥‥
もちろん、そんなに簡単にいくものじゃないとは思います。
ものすごく想像力をはたらかせないといけないし。
(剛)



<無いという動機>

今大きな壁にぶちあたっています。
小学校教師をしていますが、どんなに気持ちを隠しても、
こどもには心を読まれてしまいます。

そのうち、話をしても、
子どもたちが私の話を
ちゃんと聞き入れてくれなくなりました。

自分がトラブルに向かう時の、
気持ちをふりかえってみました。
動機は、「この子達が大好きだからだからプラスにする。」
ではなく、
「まいったな、また困ったよ。やめてくれよ。」でした。
寝る前も考えて、夢にまで出てくるほど思いつめて、
自分の何が悪かったか‥‥ばかりでしたが、
クリアになった気がしました。

子どもたちのことを大事に思っているし、
大好きなことは確かだという気持ちを見失わないよう、
話しました。
そうしたら、すぐにこどもたちに伝わりました。
けんかの解決、注意、どんなときも動機をはっきりさせ、
「好きだから、大切だから」という気持ちを
忘れないようにしたら、
こどもは敏感です。
ちゃんと、聞くようになり、明るくなりました。

無いものをださなければならない時も、
どんな気持ちで動機で言うかによって
受け取られ方は変わってくると思いました。
(みーたん)



<試される>

つねに「自分が試される」ことではないか、と思います。
試される、というのはやはりとても辛いですよ。
覚悟がいるのです。
(かをり)



<受け手も、無いものは受け取れない>

先日、上原ひろみさんという
ジャズピアニストのライブに
行ってきました。
そこで、彼女の“表現”に本当に圧倒されて、
すごく感動しました。
彼女の“表現”には少しも、見せてやろうとか、
上手くやろうとか、そういう邪心みたいなのが
感じられなかったんです。

ただ、自分の中にあるものをピアノという媒体を通して、
最高の形で伝えたい、
ただそれだけだったんだと思います。

ピアノを弾いているときの彼女は
本当に無防備というか、
無邪気というか、だから彼女自身が
ダイレクトに伝わってきました。

上原さんが伝えたかったのは、
彼女の中に湧き上がってきた想いのものだったのだ
と思いますが、彼女は何よりも、
今自分がこうしてピアノが弾けていることを心から喜び、
そして感謝をもっていて、
そしてそれを人と共有したいんだろうなって感じました。

何かを伝える時に、
「ありのまま」であることは大切なんだ
と思います。

沢尻エリカさんが、非難されてしまったのは、
彼女自身のネガティブな感情に対して、
あまりにも無防備だったからなのだと思います。

怒りや、不満や、不審などネガティブな思いは、
伝えられる側にとって不快です。
そして、あまりにも感情を剥き出しにされるのも、
受けて側は戸惑います。

何を大切にしているかの焦点がどこに向かっているか、
これって表現の方向性に影響するのではないかな
と思いました。

自分の周りにいる人を大切に思えること、
自分のありのままを受け入れていること、
そして、相手のありのままを受け入れていること。
お互いの存在を大切にした
コミュニケーションをすること、

何かを伝えようとする時、
何が伝えたいか、伝えたいことがあるかないか、
よりも、そっちのほうが
大切なのではないかなと思いました。

そして、ライブにいって、本当にいいライブって、
難しいことは抜きにして、
ただ「最高に楽しかった!」とか
「チョー幸せだった」とか、そんなものしか
自分の身体には残っていないものだと思います。

結局のところ、その人自身がその時持っているもの、
それが表現の全てなんだろうなって思います。
そして、受けて側も、自分の持っているものの範囲でしか
受け取れないのだと思います。

ただ、表現って、例えば言葉なり、
その他の手段なりに出来る段階って
かなり意識化された状態にならないと無理ですよね。

だから、意識化されない部分で、
その人自身のなかに眠っている、潜在化している、
まだ形にならない“何か”は
全ての人の中にあると私は思います。

それが、どのように意識化され、表現につながるか、
というのが難しいところなわけですよね。
(MEGUMI)



自分が試される側の生徒だったら、
「書くことがない」ときに、
とる道は一つだなあと、いまは思う。

それでも、与えられたテーマで、
与えられた条件をちゃんと守って書こうとする、
ということだ。

「書くことがない」ということを通して
読み手に伝えたい何かがある場合と、
よほど書いて書いて書きつくして、
カラカラになった場合をのぞいて、

もし私が生徒で、
「書くことがない」ということで書きはじめたとき、
それは、みんなと同じ条件に並んで評価される
ということからの逃げになるように思う。

条件を守れば、みんなと同じ座標で比べられる、
だから条件を守らないことで、
自分だけ違う座標に身を置く、
というようなことに、私ならなるだろう。

自分の場合、
条件を守らなくって文章が悪かったときより、
ちゃんと条件を守って、かつ、
その文章が悪かったときのほうが
恐い。

ちゃんとみんなと同じ土俵に並んで勝負して、かつ、
だめだった、ということだから。

逃げては、先に進めないように思う。

だから、与えられたテーマで、与えられた条件をまもり、
書くことがなくても、それでも書く。

当然、時間内に字数が埋まらなかったり、
いい文章が書けなかったり、
書いたけど内容がつまらなかったりして、
悪い評価をもらってしまい、自己嫌悪になり、
ほかの人と比べられて
劣等感をかみしめるかもしれないけど。

その評価を受けとめることで、先へ進めるように思う。

「書くことがない」と口に出して言うことが、必ずしも
「自分には書くことがない」と
受けとめることではないように思う。

「受けとめる」ということについて、
読者からのこのメールを紹介して、きょうは終わりたい。


<受けとめる>

「書くことがないときに、あなたならどうしますか」

受けとめる

「書くことが何もない」って、
周りにあるものに耳をすましていない、
何かを受けとめる余裕が
自分になくなってしまっている時に、
感じるものではないでしょうか。

受けとめることは、そんなに簡単じゃない。
本気で受けとめようとしたら、
表現する時と同じくらい痛みを伴うこともあると思う。
過去の自分には受けとめることが難しかったのに、
それからいろいろ経験したら
受けとめられるようになった、
ということも、本当はとっても多いと思うのです。

どういう時に「書く」のかは、いろいろだけれども、
その一回の「書く」という機会を与えられただけで、
その場の状況とか空気とか、
それまで時間を刻んできて今そこにいることとか、
「書け!」と言っている人との出会いとか、
書く前に受けとめるものは、
もう結構用意されているのかもしれないと思います。

伝わる力をもっている表現は、
「受けとめてるよー でもさ」に似てる。
結局は「でもさ」に惹かれるわけだけど、
受け手にも見える世界を、
「受けとめてるよー」と伝わってくる部分が全然ないと、
心に引っ掛からない。

だから「書くものがなかったら」、
その瞬間にあるものを受けとめようとしてみる、にします。
今自分がもっている器が充分じゃなくっても、
踏ん張って、その器だけで受けとめる。
流れ込んでくるものの衝撃で、
自分の器が広げられることもあるはずだし、
受けとめるのに使う器は、完璧じゃない、
自分だけの器だから、
例えば受けとめる前の自分の冷蔵庫が、
ほとんど空っぽだったとしても、
「色々こぼれちゃったかもしれないけど、
 こんなものをこんな風に受け取ったよ」
ということは書ける。
自分だけの器の形が、
他の人には「でもさ」として届くかもしれない。

「表現しろ」と言われることは、
「どういう風に受けとめてきたのか」問われることだ
と感じることがあります。
ちゃんと耳をすまして受けとめられたら、
自分が語るべきことは自然と分かるのかもしれない。
(あめんぼ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-12-19-WED
YAMADA
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