YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson373
 好きなことを仕事にしますか?


たとえばイチローのように、

大好きな野球をやって、
それがそのまんま自己表現になり、
そのまんま仕事になり、お金も入ってきて、
それで素敵な異性も引き寄せて幸福な家庭をつくる

そういう生き方に、私は、
ずいぶん長い期間とらわれていたように思う。
若者をあおりもした。

「好きを仕事にしよう」と。

でも、
「好きなこと!=アイデンティティ!=仕事!=幸福!」
が自然につながる! みたいな生き方は、
実はそうとうハードルが高いものなんじゃないだろうか?

もしも野球と別の分野に「女イチロー」がいて、
好きなことが自己表現になり、
仕事になり、
まではいっしょだが、

海外に羽ばたく時点で、
恋人は仕事を辞めてついてきたろうか?
女イチローのやりたいことを全面的に支えるか?

以前このコラムで、
「自己表現と自立と幸せになること」は別、
という話をしたとき、
女性の反響が大きかったのもうなずける。

女も、男も、

ほっといたら「自己表現と自立と幸せになること」が
一致しない。

多くの人は、3つ別々に、
地道に、がんばって手にしている。

それでぜんぜんいい
というか、むしろ、

人生のはやいうちから、つきぬけたものをもち、
はやくに3つが一致してしまった生き方は、
「1つくずれるとすべてが‥‥」という脆さもある。

「やりたいことがみつからないけど働かなきゃなあ」と
仕事をみつけ、
やっとのことで家庭ももち、
それでもどこか満たされず、
「自分らしさ」を表現するためにじたばたもがき、と
3つをそれぞれに、やりくりしてきた人が、

3つあざなえる縄のごとく、
かさなったりはなれたり、
ひとつだめでも、ひとつ伸びたりしながら、
人生のあとのほうになって、
思いもよらなかった方向で、
なんだかだんだん面白いことになっていく
という生き方も、心からいいなあ、と思うのだ。

そっちのほうが、むしろ
自分の狭い視野をこえて潜在力を生かすんじゃないか?

ケンイチさんは、

ちょうど今ラジオ「おとなの進路教室。」で
オンエアしている人なのだが、
就職活動のとき、「好き」を仕事にしなかった。

さいしょは、学生らしく、
「好きなこと」から仕事を考えていったそうだ。

「自分が好きなことと言えば、映画と音楽‥‥」

だから、CMの会社に入って
ビデオディレクターになりたい、
レコード会社に入ってインディーズを担当したい、
などと‥‥。
ところがすぐ、こう思い直す、

「待てよ、がまんならんな‥‥。」

たとえば、レコード会社に入って
自分が好きじゃないアーティストを
売らなきゃいけなくなったとしたら?

たとえば、仕事のために
自分が何百回と見飽きたようなわかりやすいストーリーの
映像を撮らなきゃいけなくなったら?

自分は映画と音楽が好きなだけに、
「がまんならんな」、と。

自分は映画や音楽が好きなのではない
「作品」が好きなのだと気づいたという。

「じゃあ、仕事のためにある程度
 自分の嗜好性を
 おさえつけたり曲げたりしても
 いやではない就職先って、なんだ?」

と考えなおしたら、
それまでたくさんあった
入りたい会社がどんどんなくなっていったそうだ。

私はそこで「がまんならん」と
気づくセンスがいいと思った。

私だったら、そこで、ボタンをかけちがえたまま就職し、
苦しんだんじゃないか。
自己表現と仕事が混線したまま就職し、
苦しくなってる人もけっこういるんじゃないか。

ケンイチさんはなぜ、学生のうちに気づけたのだろう?

「自分の人生は
 社会に出て働いてお金を稼いでから始まる」
くらいに思っていたと、ケンイチさんは言う。

こどものとき、
「お父さんに食わしてもらっている自分」という存在が
とにかく不安定でしかたがなかったと。

お父さんに食わしてもらえなくなったらそこで終わり
という依存した身分に、
こどもながらに危機感があってしょうがなく、
いつなんどき、なにがあっても、
自分が自分でちゃんとしている存在である
ことを考えたら、

はやく社会に出て働き、はやく自分の手でお金を稼ぎたくて
たまらなかったという。

自分で食っていけてはじめて一人前という、
経済的自立への欲求がまずしっかりあったことが、
安易に趣味と仕事を混同しなかった理由ではないかと、
と私は勝手に思った。

ケンイチさんはそこから、
思いもしなかった企業にはいり、
そこで出逢った「マーケティング」がライフワークとなる。

他にも、就職活動で、
「好きなものを仕事にしなかった」2人を含め、
いまやそれぞれの分野でかけがえのない存在に
なっていっている3人の話を聞いた。

ケンイチさんも含めた3人に共通しているのは、
働く前の自分の好きなことと、仕事とが、
うまくつながらなかったということと、

「これだ!」というライフワークに出逢ったのは、
社会に出て働いて、かなりたってからということだ。

3人とも、「仕事」というものは、どうも、
自分のそれまでの好きなことや、
趣味の延長上にはないぞ、
どうも違う匂いがするぞ、
と嗅覚を働かせ、
そっちへそっちへ自分をひらいていったら、
おもわぬ潜在力を開花させることになった。

実社会は、学校までの理屈が通用しない力で回っている。
そこには、太い血管が走っていて、
お金がダイナミックに循環している。

「別世界」だ。

私は就職活動のとき、
血管を激しくお金が循環する「別世界」にいくという意識が
まるでなかったと思う。

そっちの循環とこっちの自分とがヘソの緒をつながないと
食べていけないことさえ考えず、
ひたすら自己実現のとりこになっていた。

ところが、学生の就職活動をサポートしていると、
いまどきの若者は視野が広いのか、
日本だけでなく世界の血管をめぐる
お金の循環にちゃんと着目していて、
就職に際して、
「いよいよ解禁だ!」
「いよいよこの循環の中に出て自分でお金を稼ぐぞ」
とワクワクしている人がいる。

のみならず、

「この世界に、新しいお金の循環を起こすぞ」
と、はやくも経営陣の目で見ている学生もいたりして、
観ていて気持ちがいい。

仕事は仕事とわりきるのではない。
仕事は学生までの世界と別物だからこそ
別物として期待し、別物として楽しもうとしている。

「別世界」に旅立つときに、

こっちでつめた旅行カバンの中身は、
どんなに丁寧にやっても、どこか現地にいってズレがある。

例えば、
22年間、極寒の地から1歩も外へ出たことがない人が、
熱帯に旅立つとして、
旅行カバンにつめた「好きなもの」は、

例えば、ホットチョコレートのように、
極寒の地では、自分に欠かせない大好きなものであったが、
熱くて熱くてしょうがない世界にいったときに、
見え方がまるでかわってしまうことがある。

就活時点で、好きを仕事にしなかった3人は、
熱帯にいくときに、
安易にそれまでの「好き」を持ち込まず、
「現地調達」したのだろう。

未知の世界に踏みだすとき、
自分のこだわり一つ大事に持っていくか?
それとも、こだわりを捨て身をひらくか?

ケンイチさんは、「恋」をした。

好きなことから考えていった会社選びが崩れ
就職候補がどんどんなくなっていったあとに出会った、
ある会社に「恋をした」としか言いようがない
心境になったそうだ。

その会社で働けるのなら、
ある程度自分の嗜好性を曲げても、
わからないものを学びながら進んでいくことも
許容できるし、
そうしても自分はヘンにはならない、
なぜなら自分はその会社の感性に恋をしたから、と。

「そこで働けるなら
 どんな職種でも、なんでもやります」
というかつてない気持ちになったそうだ。

恋をした。

「好き」と「恋」とはどうちがう?

と言われそうだが、
これは私のまったく独断で、

恋は「未来」からくると思う。

既知の自分で判断できる、しっくりいくものが
私の考える「好き」だとすると、
私の考える「恋」は未知・未体験の
なんだかよくわからないものからやってくる、
だから心臓がバクバクする。

未知の世界へ踏み出すときに、
自分のこだわり一つ大事に持っていくか?
それともこだわりを捨て、自分をひらくか?

どうころんでもそこは未来、
いまの自分にはわかりようもない
とふんだら、

未来の呼ぶ声、つまり
「恋」に応答するというのはいいかもしれない。

恋したところに飛び込む!

というのが、別世界に足をふみいれるときの
かなり正しいお作法ではないかと、いま私は思う。

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2007-11-14-WED
YAMADA
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