YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson372
 細部が息を吹き返すとき


大学で表現の授業をしていたときのことだ。

「この学生はどうして1から10まで
 ぜーんぶ言おうとするんだろう?」

男子学生が、
さっきから前にでて、えんえんと
サッカーの話をしている。

といっても、
とくにテーマがあるとか、
メッセージがあるわけではない。

自分がいついつ、
どこどこでサッカーをやってきたか、
いわば「履歴書」だ。

小学校のときサッカーをやりはじめて、
それからどこそこに移ってサッカーをやって、
次に進むとき、
どこでサッカーをやろうかと迷ったが、
結局どこそこでサッカーをやることに決め‥‥、

ただただ、ぼくとつと自分の足跡を話している。

その授業では、
「自分という人間を初めての人に伝える」、
いわば自己紹介というテーマで、
学生が1人ずつスピーチをしていた。

めざすのは、
「ささやかでもいい、
 人がどう思ってもいい、
 自分が本当に想っていることが言えた」
という自分の納得感だ。

表現教育のスタートラインとして、まず、
人に伝わるか人がどう思うかでなく
「自分の言いたいことが言える」
ことを目指した。

その日、学生たちのスピーチは
1人目からとてもよく、
胸をつかまれるような、
「なにかひとつ」
鮮やかな印象が残る話ばかりだった。

「その“なにかひとつ”が大事なんだよなあ‥‥」

と私は心の中でひとりごとを言った。
伝わる表現というものはどこか潔い。
「なにかひとつ」を伝えるために、
他のすべてをバッサリ捨てる覚悟がいる、と。

一方で、伝わらない話は、
あれもこれも言おうとして結局なにひとつ伝わらない。

男子学生の話は、まだ続いている。
やっと「高校のときのサッカー」まで話が進んだ。

まてよ、この学生は、
小学校‥‥中学校‥‥高校‥‥、
そして大学までずっとサッカーをやっているんだな。
このペースでいくと、まだまだかかるなあ‥‥。

私はスポーツのことがまったくわからない。
スポーツの団体や学校名などの固有名詞もピンとこない。
サッカーやスポーツ好きな人には、
いろいろと響く部分もあるのだろうが、
集中しようとしても、話がすっとはいってこない。

「事実を言うんじゃなくて、事実で、言うんだよ」

私はまた心の中でひとりごとを言った。
事実を言うんじゃなくて、
なにか伝えたい熱いものがあって、
それを伝えるために必要な事実を選んで
手段として使うんだ。

この学生は事実を言うことが目的になってしまっている。

あったことを、あったまま、あった順番で話されてもなあ。

でも、ひとつもふりおとすまいというように、学生は
淡々とした足跡を、丁寧に、大切に、はなしていった。

いまの若い人は感覚がいいので、
聴く人がのってこないと、それを気にしたり、
自粛して話をきりあげたりということもあるのだが、
彼は、まったく動じない。テンションが落ちない。
かといって盛り上がるわけでもない。
ずっと同じテンションで、きちんきちんと
ひとつひとつを大事に話していく、

考えたらすごい持続力だ。

彼だって人前で話すので緊張して見えるのに、
この不思議な動じなさはどこからくるのだろうな、
と思っていたら、
唐突に終わりがきた。

「事情があって、そのサッカー部を2週間前に辞めました」

瞬間、
私は胸を尖ったものでサクッと
切られたような感じがした。
そこから切なさがわーっとひろがった。

ふいうちをくらって、とまどう私をおいて、

彼は辞めた事情もなんにも言わず、
ただアルバイトをして
またいつかサッカーをやりたいといって
さっさと席に戻ってしまった。

大学から帰る道すがら、
あとからあとから、このスピーチが思い出された。

彼がなぜ、
小学校からの淡々とした事実を
ひとつもふりおとさずに話そうとしたのか?

「彼はそれを失った」からだ。

この学生が失ってしまったのは、
こうした淡々とした日常だったのだ。

試合に勝った栄光の瞬間とか、
最も印象に残るエピソードとかではない。

人に面白く話して聞かせるなら
そういうもんが大事だろうが、
彼が失って哀しいのはそういうものではない。

淡々とぼくとつと、つづいてきたサッカーの日常、
彼が失ったのはそこだ。
彼は淡々としたサッカーの日常を続けることができない。

人が死ぬ前に思い出すのはそういうものかなあ、
いっときの打ち上げ花火ではなく、
淡々と連綿と自分がやってきたこと、
喪失感がもっともつよく、
なくなっても忘れたくないものとは、
そういうものかな。

ごめんなさい

と思った。
彼の話を目の前で聞きながら、ときどきあきらかに
つまらなそうな顔をしてしまった。

彼の話の最後を聴いた瞬間、
それまでの話がぜんぶ命をもって見えた。

どこでサッカーをやろうかと迷った話も、
あの話も、あの話も、
もりあがりもメッセージもないからこそ大事で、
いま、このタイミングでしか聞けないこと、だった。
すぐ目の前にいる私が、
もっともっと、ひとつひとつ大事にうけとめて
聴くべきだった。

小学校からサッカーをはじめて、
彼が、いつ、どのように選択してサッカーを続けてきたか、

それこそが、彼にとって、
ささやかでもいい、人がどう思ってもいい、
そのタイミングでどうしても話しておきたい想いだった。

人が何かを言おうとするとき、
人から見て、どんなにささいだろうが、つまらなかろうが
意味がある。

意味を知ったとき、自分の見ていた風景が変わる。

意味を知ったときに、
もっとも深く胸にしみるのは、
飾り気もない、特別でもない、
それは素通りしてしまうほどの
ふつうの表現だ。

私はもっともっと、
そういう表現に敏感にならねばならない。

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2007-11-07-WED
YAMADA
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