YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson371
 だれがおわびをするべきか?


テレビ取材を受けたときのことだ。

約束の時間になっても撮影隊が来ない。

イライラして恐い顔になってテレビに映ると困る。
私は、できるだけノホホンと待っていようとおもったが、
常識の遅刻の範囲は、とうに過ぎていた。

朝早くから掃除をし、慣れない化粧をした。
でも何より、気持ちをいい状態に持っていくのに
力を使った。

小さい私。

撮影隊がつくころには、すっかり
「恐い顔」になっていた。

「どうして遅れたんですか?
 理由を教えてください。」

そこを納得してから仕事にはいりたかった。

撮影隊の一人の女の子が、おそるおそる手を上げ、
なにか言おうとした、そのとき、

さえぎって、局のエライ人が、
おおきな体格で私のまえに立ちはだかった。

「私が、ここのセキニン者です。
 私のカンリふゆきとどきで、モウシワケない」

そのおわびの、しみないことしみないこと…。

よく、
企業の不祥事とか、
学校のいじめとかで、
トップがテレビに出て謝罪するとき、

生徒ひとり死んでいるのに、
あまりにも切迫感がなく
棒読みの言わされてるようなしゃべり方だったり、
うすら笑いさえ浮かべていたり、

謝罪する人と事件とがあまりにも「遠い」、

まさにあんな感じで。

この人の謝罪の声はどうしてこんなに、
「遠い」んだろう?

現場に緊張がはしっているというのに、
そのエライ人だけ、どこかヨソゴトだ。

局のエライ人はなぜかうすら笑いさえ
浮かべているように見える。

わだかまりを解消してから撮影にはいろう
とおもっていた自分は、
わだかまりが返って増幅していくことに焦った。

「じゃあ、なぜこんなに遅れたのか
 理由を説明してください」

エライ人は、

「ですから私のセキニンですよ」

と言い、
いやそうじゃなく具体的な理由が知りたいんだ
と私が言うと、

「だからモウシワケない、のひとことです」

と言う。
いや謝ってほしいのでなく、理由が知りたいというと、

「ですからゼンブ私のセキニンとしかいいようがない」

と。どうしてなんだろう、
「ゼンブ私のセキニン」と
言うたびに相手は胸をはりサイズがでかくなる印象がある。

ヨユウをかますというか、優越感というか、
抑えても頬のあたりが、なぜかうっすら嬉しそうなのだ。

その人の名刺だけ、他の人と社名がちがっていた。

どうも、「完全外注」というやつらしく。

エライ人だけ局の人。
他はべつの、テレビの制作会社から来た人たちらしかった。

実際に作業をするのはゼンブ制作会社の人で、
そのエライ人は当日、局から
ただ撮影現場を「みはり」にきただけ、そんな様子だった。
現場の監督さえ制作会社の人がやっていた。

全員がパンパンにやることがあるのに、
その人だけ何もやることがなく、手持ちぶさただった。

「下の失敗を上が謝る」

そのエライ人にとって、それは、
当日手にした、ただひとつの「やること」
だったのかもしれない。

メンバー全員が見ている前で、
自分は悪くないのに下をかばって頭を下げている、
エライ人はどこか、そんな自分に酔っているフシがある。

エライ人の謝罪は目の前の私に対して、というよりも、
背中で見ている人たちに対して
より強くアピールしている、そんな気がした。

このエライ人に謝ってもらってもモヤモヤは解消しない。

なぜなら、この人は悪いと思っていない。
それどころか遅刻の本当の原因さえ知らない。

この人は「現場」にいなかった。

「下の失敗を上が謝る」

組織では当然のようにそうする。
会社なら社長が、学校なら校長が、出てきて謝る。
自分も企業で編集長をしていたとき、
部下のミスに当然のように頭を下げた。

でも上に謝ってもらっている、
下の気持ちはどうなんだろう?

最初おそるおそる手をあげ何か言おうとした女の子は、
もう、いたたまれないという感じだった。
たぶん、局があって、制作会社があって、
そのピラミッドの一番したっぱに彼女はいる。

「自分のせいで局のエライ人が謝っている」

私のセキニンと口にするたびふんぞりかえる局の人と
反比例して、彼女はどんどん萎縮して、小さくなっていく。

不自由だ。

組織の下にいるものは、
自分の失敗を、自分で謝ることさえ
ゆるされないのだろうか?

だれが、おわびをするべきか?

「だれが、遅れたんですか?」

と私が聞いた。
そういうと個人攻撃とか誤解されるだろうし、
私の心象はますます悪くなるだろう、とわかっていたけど

「遅刻の直接の原因になった人がいるはずです。
 その人の話を聞かせてください」と。

すると、今度はさっと手を上げて
しっかりと、女の子が話しはじめた。
彼女は内心話したくてうずうずしていたようだった。

それは胸に響いてくる、ほんとにいいスピーチだった。

彼女の話によると、
いつも地図で行き先を確認し、
所要時間を読んで、集合時間を決めるのは
彼女の役目だった。
その日、最初のルートが
工事でふさがって完全に通れなかった。
一方通行の多い道で、地図を確認し、
第2のルートをみつけるのにかなり手間どった、
やっと第2ルートをみつけたものの、
運悪く、第2ルートまで工事でふさがって
通れなかったそうだ。

その時期、表参道の異様な工事の多さは私も承知していた。

聞き終わるまでもなく、「声」を聞いているだけで、
私の中にわだかまっていたものはスッキリと晴れた。

そのとき、現場にいた当人でなければわからない「現実」、
生々しい「実感」、焦りや申し訳なさといった
様々な「想い」が、
その声につまっていた。

まさに「現場の声」だった。

彼女は多くをかたらず、
ただそれだけのことを言うのに、涙を流したが、

私は満たされて
「ゼンゼンいいよ」という気持ちになっていた。

私は謝ってほしかったのでもなく、
責任をとってほしかったのでもなく、
本当のことが知りたかったのだな、と思った。

先ほどまで、エライ人とのヤリトリに
消耗しくすぶっていった場に、
不思議な共感、というか、一体感が生まれ、
みずみずしい、やる気がみなぎってきた。

彼女は、みんなの前で想いをきちんと表明できたこと、
自分のやったことに対して、
自分なりに責任が果たせたこと、
それが伝わったことに、晴れ晴れとしていた。
そこから、彼女はイキイキと立ち働き、
カメラさんも、音声さんも、イキイキしていた。

もしも、何ひとつ想いを言えないまま、
上の人にあやまってもらったままだったとしたら、
彼女の中に泥水がたまったように苦しく、
萎縮したまま、自分に自信をもてないまま、
ではなかったか。

人は表現したい生き物だ。

表現教育に携われば携わるほどに、
そのことに驚く。意外なほどに人は表現したがっている。

多くの人は、人前で話をしろと言われると嫌がり、
文章を書けというとニガテだという。
でも、表面ではそういいながらも、
心の底では、想いを外に出したい、出さずにいられない。

エライ人は、いいとおもって、
下の者を、しかもまだ、未熟な若い者をかばったのだけど、
ひとつまちがえば、
こんなにしっかりと表現する意志と能力のあるものから、
「表現の機会」を奪うことにもなりかねなかった。

「下の失敗を上が謝る」

というのは、
組織で働いている以上、責任は組織にある、
という考えからきていてそれはそうなのだろう。
私もそう思ってきた。

でも、「責任」を取ることと、「謝る」ことは別だし、
さらにその前に、「真実」を説明することは別だ。

現場から遠い上の人の謝罪の声ばかりが聞こえてくる中で、
現場で本当のところ何がどうだったのか
「真実」は闇の中だ。

上が下をかばうことはやさしい。

でもそれは同時に、真実を表現する動機と力のある人から、
表現の機会を奪っていることにもなる。

真実を「説明」すること、
迷惑をかけた人に「謝る」こと、
「責任」をとること、

それぞれだれがやったら一番いいことなのか?

自分もチームで動くとき
ゼロから見直してみたいと思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-10-31-WED
YAMADA
戻る