YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson367
 自己表現と自立と幸せになること


おとなの進路を考える
インターネットのラジオ番組を担当して1年になる。

いろいろな人の就職観にふれて
あらためて思うのは、

「社会に出てからのことは、
 社会に出てみないとわからない」んじゃないか、

学校の中にいて、あれこれ画策した夢は、
実社会にすえてみて、そぐわないばかりではなく、
「働くとは何か」という肝心なことへの目を鈍らせ、
へたすると足元をすくわれかねない。

とくに、
自己表現と自立と幸せになることは、
かなり違うものだが、
まだ社会に出る前の考えでは、
ものすごく混線しやすいのではないか、ということだ。

ちょうど今、
ラジオ「おとなの進路教室。」でオンエアしている
コピーライターのSさん29歳は、
大学生のころ、自主映画をとっていた。

そこから思い描いた進路は、ドキュメンタリーを撮ること。

就職氷河期にもかかわらず、
テレビ番組の制作会社の内定も比較的すいすい得た。

ところが、内定時代から、
ADとして現場に連れ出される。
期待したドキュメンタリー番組はほとんどつくっておらず、
バラエティ番組の現場で、5日間徹夜の洗礼を受ける。

あることで、さいごの辛抱の糸が切れ、
せっかくの内定を自ら棒にふってしまう。

卒業は目前、外は就職氷河期、就職先なし‥‥。

でも、それがよかった、
あのとき、すいすいドキュメンタリーの方へ
進めなくてよかったとSさんは言う。

「もし、学生のとき自主映画から思い描いたままの進路に
 進んでいたら、
 仕事と自己表現とを混同してしまったかもしれない」と。

Sさんを、自己表現の延長でない、
仕事の面白さへと導いたのは、
大学での勉強でもなければ、
自主映画でもない、
銀座のクラブでのアルバイトだった。

クラブの華はホステスさんたち女で、
お客さんの眼中に、男はいらない。

そんな仕事場で男である自分がどう働くか、
と考え、Sさんがまずやったのは、
お客さんをじっと観察することだった。

「あのお客さんはボトルキープをしていて、
 いつもあの棚からボトルを出す。
 ボトルに名前を書いてあるから、
 あらかじめ名前を覚えておいて、
 お店にきたとき、○○さん、と名前で
 呼んであげると嬉しいだろうな‥‥」

「あのお客さんは、ヘビースモーカーで、
 いつもタバコが切れて、買いにいかされる。
 いつも同じ銘柄のタバコだから、
 あらかじめ買っておいてあげると歓ばれるだろうな‥‥」

それで、お客さんがいつも頼むタバコを
先回りして買ってポケットに入れておいた。
「ボーイさん、ちょっと」とお客さんが振り向く、
Sさんは、ちょうどその位置にスタンバっていた。

すると案の定、お客さんが、
「ボーイさん、ちょっと」と振り向く。
Sさんは、言われるよりはやく、
「これですね」と相手がほしいタバコを差し出した。

そんなことが何回か続いたある日、
お客さんがSさんに
「おまえ面白いな、話そう」と
ホステスさんをどかして隣りに座らせた。

その人がたまたまコピーライターだったことから、
Sさんは意図しなかった広告業界に進むことになり、
それまで関心すらなかったコピーライターという
仕事に就くことになる。

そこでSさんは、趣味とも自己表現とも違う、
「仕事」の面白さをつかんでいくことになる。

「広告の仕事は、自己表現ではない。
 だれかのために、何かをするのが明快で、
 結果も厳しく問われる」
とSさんは言う。

そして、「その方が自由だ」とも。

Sさんにとって、自主映画からドキュメンタリーという
学生のとき思い描いた進路は、
自己表現と仕事が、近いところにありすぎて
ひとつまちがうと
身動きとれなくなっていたかもしれないという。

私も、あらためてそうだな、と思う。
仕事と自己表現が混線し、
混線していることに本人が気づいてない状況は苦しい。

でもSさんのように、
仕事と自己表現の境がはっきり見える立ち位置にいて、
その気になれば、仕事と自己表現と、
両方のフィールドを動き回れ、
両方の面白さを味わえるようになっていけるのは、
自由なことだと思う。

仕事と自己表現が重なったときの歓びもひとしおだろう。

私たちは、生きている限り、自分を表現する。

それこそ、きょう着るものから、
発する言葉、行動や選択まで。
「自己表現などとくにしたくない」というのも
その人の表現で、
私たちは、自分を表現して、その反応をあびて、
徐々に自己を確立していく。

時間をかけて、「自分になる」作業というのかな。

でもそのことと、「仕事」とは違う。
自己表現は、たとえ1円のトクにもならなくても、
だれにも何の役にも立たなくても、
ときに巨費を投じてでも、やらなければならない。

たとえば、「自分が自分であるために」
特定の服装や髪型を必要とする人は、
巨費を投じてでもやりつづけなければ自分であれないし。

「自分が自分であるために、絵を描きつづけなければ」
という人は、1枚も売れなくても一生描き続けるだろうし、
一生描き続けるのはいいことだと私は思う。

一方、仕事は、たとえ1円でも、
金を稼がなければならない。
それはお金の向こうにいる人を喜ばせ、
人の役に立てることとセットだ。

必達目標は、自分が生きるのに必要なお金と
仕事で稼ぐお金がつりあうことで、
その循環がちゃんとつくれれば、
自分の食べる分は自分で食っていけるようになった、

「自立」したと言っていいのではないか。

誤解をおそれずにいうと、
お金を稼ぐということは、
お金を稼いでいる場でしかつかめない。

Sさんが、お客さんをじっと観察し、
先回りしてお客さんに歓びを提供するという、
広告やコピーにも通じる
「仕事」ならではの面白さをつかんだのが、

学校でもなく、自主映画という自己表現の場でもなく、
「銀座のクラブ」だったというのは、
そこが、利益を生みだす「現場」だったからだ。

人・モノ・金・サービスがうずまく大海原が社会なら、
銀座はとりわけお金がうごくところ。
それなりに仕事で成功した人が、より高いサービスを求め、
一夜にしてたくさんの利益が生み出される。

学校では、
自立して食っていけるようになることを学べない。
学校は、利益を生まない場だからだ。

人、モノ、金、サービスがうずまく大海原から、
隔離され、柵でかこわれた牧場のようなところに
学校がある。

理解力をつけさせることの達人である先生たちも、
大海原から金を稼いでくる方法は教えられない。
なぜなら先生たちも牧場におり、
大海原に金を狩りにいく日常をおくっていないからだ。

牧場の中で、若者が思い描く就職観は、
自分がいま受けている「教育」関係だったり、
イラストレーターや作家など「表現」に近いものだったり、
人に役立つイメージを抱きやすい「福祉」関係だったり、
利益直結というよりは、
どこか利益に対してクッションがある。

ところが、社会にでたとたん、
利益が厳しくとわれ、それで自分の価値まで計られ、
利益の奪い合いの競争にさらされるのだから、
社会に出てとまどうのもあたりまえだと思う。

私自身は、利益を生み出すところにこそ、
教育とも、自己表現とも、福祉ともちがう、
「仕事」ならではの面白さがあるように思う。

3年以内に、
せっかくはいった就職先をやめる若者が多いというが、
実際に海に出て3年ほど働いてみて、
牧場で考えていた仕事観がどうも違うなと気づいて、
まちがいを改めるのに
躊躇しない若者もふえているとしたら、
それはそれで利にかなったことではないだろうか。

社会に出てからのことは、社会に出てみないとわからない。

海を体感してほしい。

自己表現と仕事が別物であるように、
「幸福」になることのベクトルは
もっともっとちがうと思う。

2週つづいて3連休だった。

私と同世代の友人は、
すでにこどもが2人も3人もおり、
運動会だとか、こどもの成長だとか、
人生でも実りのおおきい時期をむかえている。

休日の、家族連れや、
恋人同士のテーブルを横目で見ながら、
私は、たったひとり、講演先の駅のレストランで、
ひとり、かきこむように夕ごはんを食べる。

自分は仕事も、かなりがんばってきた。
自立してだれの援助もなく食っていけてはいる。

若いころは、自分というものがまだ希薄だったが、
年を重ねるにつれ、少しずつ、
自分の顔にもなってきたように思う。

でも、このベクトルが自然に「幸福」と重なるとは
どうしても、思えない。

「幸福」になるというレッスンを
どうも受け損ねたように思う。

自己表現をおろそかにせず自分が「自分である」こと、
自分の食う分は自分で稼いで、
「自立」して人の役にたって生きていくこと、
そして、もうひとつ、「幸せになる」ということを、

これからは、どれかにどれかを便乗させず、わけて
きっちりやっていかねばなあ、と思う。

自己表現と自立と幸せになること、
いまのあなたに足りないものはどれですか?

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2007-09-26-WED
YAMADA
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