YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson361 通じ合う力


通じ合う力というと、
私にはどうしてもかなわない人がいます。

以前その人のことを「日本の学童ほいく」という冊子に
書いたのですが、書いた時から
「これはおとなの小論文教室。の読者に、
 読んでいただかなくては」と思っていました。

このたび、許可を得て
紹介させていただけることになりました。
では、お読みください。


「通じ合う力」

私にはどうしてもかなわない人がいる。
それは4年前、
生まれて初めて「山田ズーニー」の名で
講演をしたときの自分だ。

いま読み返してもへたくそな原稿。
それを2週間がかりで、何度も絶望しながら書いた。

自己ベストが書けたと小躍りしたのもつかのま、

自分には、この膨大な量の原稿を暗記する時間も、
アドリブでのりきる経験もないのだと気づき、
また暗くなった。

当日は痛々しいまでに緊張し、壇上に立ち、
用意してきた原稿をただ読む、だけだった。

400名近いお客さんは、
何の芸もなく、
へたくそな私の講演を、
それでもなぜかしーんと聞いていた。

終わった瞬間、
あたたかい、降るほどの拍手が、注がれた。

自分と人が通じ合う、
疲労した体にそれをひしひし受けとめた瞬間だった。

私には歓ぶ気力さえ残っておらず、
消し炭のようになって帰り、
それから5日間寝込んだ。

あのときの自分に勝てない。

あれから原稿も少しはうまくなった、
人前でしゃべれるようにもなった。
いまのほうがうまい、けど、勝てない。

あのときのお客さんとの一体感、
緊密に場内の空気を引き寄せ、
自分のひと言ひと言が人に染みわたっていくような感じを、
いまだに越えられない。

「伝えることがニガテだ」と多くの人が言う。

でも人の心に通じるものは、
得意か苦手かではない。
うまいへた、経験のあるなし、知識のあるなし、
技術のあるなしでもないと、
あのときボロボロになりながら壇上に立ち、
それでも伝えようとしていた自分が教えてくれる。

じゃあ、人の心に通じるものはなんなのか?

表現の教育をずっとずっとやってきても、
本当のところ、まだわからない。
わからないから、あのときの自分をこえようとして、
越えられなくてもがいている。
このもがきは一生続くと想う。
一生、通じ合おうとして通じ合えなくて、
もがいてもがいて進んでいくと想う。

ただひとつ言えるのは、
通じ合えないときに、文才やセンスや
教養や技術や経験がないせいにして、逃げてる限り、
その人には絶対通じ合う歓びは訪れないということだ。

逃げていた。

私は、近ごろ講演でも文章を書くのでも、
想うようにできないと才能のせいにして逃げていた。
自分は文才のあるあの作家や、
あの研究者とは出来が違うんだからと。

あのときの私は逃げなかった。
あのときの私は知っていた。
自分には、何百の人を感動させる才能がないことを、
人をひきつける話芸がないことを、
あっと驚かせるような知識も、
豊富な経験からくる持ち味もないことを。
このままでは講演が成立しないことを。

限界まで努力してそれでもへたくそだったから、
打ちひしがれるような想いで自分をよく知っていた。
その上で、何ひとつ「逃げ」を打たず、
まっすぐに自分の想いを伝えようとした。

あの日壇上に立ったとき、
お客さんにはレントゲンのように
透けてみえていたのではないだろうか。

私がこの講演にどんな姿勢で、
日々どんなふうに向かっていたか。

人と通じ合う力とは、そんな力ではないだろうか。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-08-15-WED
YAMADA
戻る