YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson348 たった一つの返事


幼稚園のときのことだ。

みんなで、絵を描いていて。
どうしてそうなったのか、
1人の女の子が自分の描きかけた絵を差し出して、

「これ、ヘタなろー?」

と隣りの女の子にきいた。
「ヘタなろー」とは岡山弁で「ヘタでしょ」「ヘタよね」
くらいの意味。
同意を求める言葉だ。

聞かれた女の子は、即座に首を横にふって
「いいや、ヘタじゃねぇ」(いえ、ヘタじゃないよ)
と答えた。
ヘタじゃないと言われた女の子は、
安心してお絵かきにもどった。

少しして、今度は別の子が、
近くの子に絵を差し出して、

「これ、ヘタなろー?」

と聞き、聞かれた子はまた、
「ヘタじゃねぇ。じょうず」と言い。

これがはやってしまった。

その場にいた子は、次々に、
自分の絵を身近な子に差し出して、

「ヘタなろー?」
「ヘタじゃねぇ」

を、えんえんと繰り広げはじめたのだ。
私はどうしても、その雰囲気にノレず、
自分にくるな、くるな、と願っていたが、

とうとう、
そばにいた女の子が、
私に絵を差し出し、

「これ、ヘタなろー?」

と聞いた。

「うん。ヘタな」
(はい、ヘタです)

私は即答していた。

ヘタと言われた女の子は、
「わーん!」と火がついたように大泣きし、
ほかの子があわてて先生を呼びに行った。

こどもながらひどいことをしたものである。

ただ、ほんとうに絵がヘタと思ったわけではなかった。
絵を見る前から、心のどこかで、決めていたふしがある。
「自分だけは同じ反応をすまい」と。

私の「ひねくれ」ぶりは、
これだけではない。

私はお礼を言うのがニガテだ。

親戚のおばちゃんが、
親にことづけて、私にお祝いなり、おこづかいなり
くれたようなとき、決まって親が、すぐ、
「おばちゃんに電話してお礼を言いなさい」と言う。

これが苦痛でしかたなかった。

しなきゃ、しなきゃ、と思えば思うほどできなくなる。
親から催促されては、
「わかってる!」「いましようと思ったのに!」
と逆ギレする。

私の姉などは性格がよく、
自分からすぐ、すすんで、おばに電話をし、
たのしく談笑している。

よけい自分のひねくれぶりが際立つ。

やがて親がシビレを切らし、
私を逃げないようにつかまえておいて、おばに電話し、
私にかわるからと受話器を無理やりおしつける。

「おばちゃん、ありがとう‥‥」

ぶっきらぼうに、まるで怒っているのか、
というような言い方で、どうにかこうにかお礼を言って、
こどもながらに敗北感に打ちひしがれていた。
「これではない、これではない、
 自分が言いたかったのは‥‥」

自分のことをただ「ひねくれもの」と切り捨ててきたが、
おとなになって少し、このころの自分の気持ちが
わかるようになってきた。

以前、ここに「おわび」のコラムを書いたとき、
編集者さんが、
「おわびをされる側は、
 返事は1つ、“許す”しか言えなくて、
 そこに違和感というか、
 まるでボランティアを強制されてしまうような
 居心地の悪さを感じるのかなぁ」
と言っていて、
そうか! と腑に落ちるところがあった。

あの、幼稚園で
「ヘタなろー?」と絵を差し出されたとき、
私には、たった1つの返事しか許されていなかった。

絵を描いていて、
だれからともなく不安になったのだろう。
「こんな描きかたでいいの?」
「自分が描いたものを人はどう思うの?」
この不安がなんとなく伝染し、

そこに偶然にも、
ほかの人から簡便に、安全に、
必ず「じょうず」と言ってもらえる方法が
出てきてしまった。
それで、みんな、すぐに試してみたのだ。

みんなの前で「へたでしょう?」
と言われれば、返事は1つ、「いいえ」としか言えない。

返事が1つしかないところに囲い込まれる

そこに自分は「不自由」を感じたのだと思う。
自由をとられることが自分はなんとしてもイヤなようだ。

コミュニケーションが自由かどうかは、
返事を「選べる」かどうかにかかっている。

人は「選びたいんだ」と思う。

そうとうに追いつめられた状況でも、
限られた選択肢であっても
それでも、返事の立場を選んだり、
タイミングを選んだり、
自分の自由な意志で返事を選びたい。

その自由を奪われるとなんとなく不快になる。

たとえそれが、「ありがとう」というような
よいものであっても、
こどもながらに、強要されるのでなく、
ありがたみがわきおこってから
自分の意志で、自分の言葉で、言いたかったんだと思う。

返事が1つしかないところに人を追い込んではいけない。

でも、気がつくと自分もよくやっている。
とくに不安になったようなとき、
「どうせ、あなたは私のことなんか
 大事に思っていないんだ」
と、つい、やってしまう。
言われたほうは、
「いいえ、大事におもっています」
といわざるを得ない。

ボランティアを強要したほうは、
それでしばしの慰めを得るが、
返事が1つしかないところへ囲い込まれたほうは、
答えがほんとうかどうかに関係なく
返事が1つしか許されない、
そのことに窮屈になっていく。
それがすぎれば、相手は離れる。

自分の投げかけた言葉に、
相手は返事を選べる自由度があるだろうか?

予定調和なたった1つの返事を強要していないだろうか?

とくにメールのやりとりの中には、
それをもらった人が
「よかったね」というしかないものとか、
出すほうも、きっとそういう答えが返ってくると
わかって出しているというか、

出すほうも、もらうほうも、
あらかじめわかりきったなにかを演じてしまうときがある。

そういう安心感が必要なことは100も承知で、
それでも、そこにノレない、
もっとおもしろくしたい、
と思っている自分がいる。

どうしたら、
相手により自由な、たくさんの選択肢を与えつつ、
自分の言葉をなげかけられるのか?

どうしたら、
返事が1つしかないところへ囲い込まれたとき、
そこに屈しないで、
でも幼稚園の自分のように相手を傷つけるんじゃなく、
予想を裏切って面白い、「その先の答え」が返せるのか?

まずは会話の中で、相手が何を答えるか、
まったく予想もつかない質問を探すことから
はじめてみたいと私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-05-16-WED
YAMADA
戻る