YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson335 原案


たとえば、本の表紙をつくるようなとき、

仮に「おとなの進路教室。」というタイトルだとして、
そこにどんな写真やイラストが入るかで
印象はガラリと変わる。

イラストがダサいと
言葉もなんとなんとなくダサい印象になるし、
ビジュアルが愉しいと、
言葉まで愉しい印象に見える。
ビジュアルが古臭いと、
どんなに新しい内容でも古臭い印象になる。

写真やイラストなどのビジュアルは、
空気・匂い・味・手触りなど、
そこの「世界観」を規定する。

逆に。

春先の交差点の風景を撮った「写真」があるとして。
カメラマンは、
あくまで活気づく街の空気を撮りたかっただけで、
そこにたまたま矢印の入った標識が映っていたとする。

そのままなら、写真を見る人は、
いろんな見方ができるだろう。

しかしそこにもし、
「おとなの進路教室。」と言葉が入ると、
「この標識の矢印は進路をあらわしている」
というような解釈が出てくる。
いったんこのような「意味」で写真を見てしまうと、
もとの言葉がなかったときのように
純粋な目で写真を見ることができなくなる。

言葉は、ビジュアルの「意味」を規定する。

ビジュアルは言葉を規定する。
言葉はビジュアルを規定する。
ビジュアルと言葉はたがいに規定しあう。

そんなことをいまさらのように思うのも、
この春2冊の本を刊行するにあたり、
どんなつくり方をしたら
納得のいく表紙ができるのだろうと考えていたからだ。

先週、伝わりやすく理解されやすい表現について
コラムを書いたところ、読者のじゅさんは言う。

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<絵と言葉>

元々、イラストなど「絵」の仕事をしていました。

ひょんなことで雑誌で「漫画」を描いてみないか?
というお誘いを受け、
自分の表現したいイメージのどれだけを「絵」にして
どれだけを「文字」にするか?
まずつまづいてしまいました。

小説は文章、映画は映像、
漫画でなければならないという表現は
「絵」だろうと思い、
「絵」中心にまとめました。

絵は得意なので張り切って担当さんに見せました。
「読みやすかったけど。
で結局、何がかきたかったんですか?
テーマがわからない」
と言われました。

少々乱暴ですが漫画において
「文字=具体的(直球・ストレート)わかりやすい」
とすると
「絵=イメージ=わかりにくい=想像力がいる」
に近いのかなと思います。

絵とセリフがあったら読者が読むのは「セリフ」です。
絵があると散漫になるので、ここぞという時は 
絵をいれず 文だけ 置いて伝えます。
絵が上手い人はここぞという時 
絵やキャラクターの表情だけ で伝えます。

イメージのみでは明確に伝わらない。
文字が多すぎると読みにくい。
テーマをどれだけ直球でなく
笑いや感動を入れたりぼかして
エンターテイメントにして伝え心をつかむか?
       (読者 じゅさんからのメール)

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表紙をつくるとき、
これまでタイトルやキャッチコピーなど、
先に完全に「言葉」を決めてしまい、
バトンタッチして、「ビジュアル」はデザイナーに任せる
ということをやっていた。

でも、ビジュアルと言葉が互いに規定しあうと考えると。

こちらが当初意図した言葉のイメージは、
ビジュアルによって
すごく変えられてしまうこともあるし。

ビジュアルを考える方からすれば、
「この言葉、ちょっと窮屈だな、
 もうちょっとどうにかならないかな」
とおもうことだってあるだろう。

じゅさんの中で、絵と言葉がせめぎあって
表現したいイメージに近づいていくように、

言葉とビジュアル、どちらか一方を
先にがっちがっちに決めてしまわず、
自由度を残し、互いにじわじわと探りあうようにして
表現したいイメージにたどりついてもいいんじゃないか。

ビジュアルと協調して伝えていく以上、
言いたい「言葉」に固執しない方が、
逆に、「言いたいこと」が明瞭に見る人に届くこともある。

そんな風に自分の中が変わってきていたせいか、
偶然にも先日、
出版社さんと自分とで決めていたタイトルを、
デザイナーのビジュアルのイメージを見て、
その場で変えるということをした。

言葉にこだわりを持つ自分には珍しい。でも、

デザイナーさんが目の前で表紙のイメージを手書きし、
そこに自分たちでつくった言葉をのっけてみて、
イラストで言えてしまっている言葉を取ったり、
イラストのイメージとバランスをとって
言葉の表記を変えたりしていく作業は、
当初自分の意図したイメージへ、
より解放されて近づいていくようで、とても自由だった。

そのような作業が成立する条件は、
「原案」の確かさだと思う。

タイトルという「言葉」になる以前に、
自分がそこに込めようとした想い・考え方、
それが、ここで言うところの「原案」だ。
そこがしっかりしてないと、
タイトルをいじったりしたら
バラバラになるんじゃないかと。

「原案」という言葉が適切かどうかわからない。
ミュージシャンをしている友人が言っていた言葉で。

彼は、ジャンルもキャリアも相当異質な人たちと、
セッションをするのだが、
それがなんだか最近、相当いい回路に入っている。

で、そのときに、「相当、原案がしっかりしていないと」
ということを言っていた。

「原案」、つまり、
もともとの曲を作るときに込めたものが
相当にしっかりしていると、
だれと組んでも、どう転んでも、
ひっちゃかめっちゃかに変えられたとしても、
やっぱり面白いと友人は言う。

私の、その本の場合、
枝葉末節のテクニックではなく、
「いちからコミュニケーションの基礎をつくる」
ということを
執筆にも、タイトルをつけるにも大切にした。

それが、「原案」であり、
地味だけど譲れない本のアイデンティティだ。

タイトルを決める過程で、出版社のススメもあり
「もっと売れるタイトルにしようか」とか、
「もっと好かれるタイトルにしようか」とか、
やまっけが出てきて、揺れた時期もあった。

しかし、最終的に、それ以上でもなく以下でもなく
いちばんこの本らしいところを、正直に、直球で
タイトルにしようと考え、言葉を選んだ。

その背景が、デザイナーにも伝わる言葉だったからこそ、
ビジュアルのイメージの中で変容しても、
最終的にタイトルの言葉をいじっても、
より「原案」のイメージに近づくものへと
解放されていったのだ。

売れようとして奇をてらったり、媚びたりして、
「らしくない言葉」に刷り変えなくてよかったと、
デザイナーと対峙したとき、しみじみ思った。
そういう「らしくない考え」から形成された言葉だと、
何を大切にしていいか、
何は変えていいのかわからず、
ビジュアルで膨らませようとすればするほど
自分の想いとズレて、ぐちゃぐちゃになっていったろう。

言葉にできないものは伝わらない。

だけど、言葉になる前段階で、
私たちは、想いに想い、考えに考える。

ときにはカタチとなった言葉の完成度より。
言葉を生みだす前段階の方が大事で。

その思考の筋道がしっかりした言葉こそ、
たとえ未完成でも、
土壇場でカタチが変わっても、
最終的に強いんだと私は思う。

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2007-02-07-WED
YAMADA
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