YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson333 平和な風景


夕方、
ニュース番組をつけると
こどもが言い争いをしていた。

再現するとこんな感じだ。
一回見ただけなので細部に
私の記憶ちがいもあるだろうけど、
大筋はちがってない。

いじめ役のこども:
(陰険な感じで、人を見くだし、はやしたてるように)
「なんで、おまえん家の
 父さんも、母さんも、
 大学でてないんだよー。
 おれん家なんか、
 父さんも、母さんも東大でてんのにー」

そう言われたこども:
(冷静に、でもきっぱりと、強く)
「なんで、おまえの
 父さんと母さんが東大でてることに、
 おまえ自身がいばるんだよ?
 おまえが自分で東大はいってから言えよ!」

言われたら言い返せ。
言葉の攻撃に理屈で抗戦できる言葉力をつける、
こどもを対象としたワークショップの報道だった。

見ているこっちまで胸がスカッ!とした。

一連のいじめをめぐる報道では、
自分の無力感もあり日々悶々としていたが、
風穴があいたような瞬間だった。

いじめのあとには何がある?

なくせるかどうかは別として、
多くの人がなくそうと働きかけている。

もしも完全になくせたとして、

そのあとのこどもや、学校や、
コミュニケーションのあり方に、
みんなどんな「ビジョン」を描いているのだろう?

ある人は、
こどもたちがみんな仲良く手をつなぎ笑いあっている
争いのない状態を描くだろう。

どんなビジョンを描くか、
それはその人の「平和」というものの捉え方に
関係している。

小論文で戦争をテーマに扱ったとき、
「平和とは何か?」
という問題提起をした。
単に戦闘行為のない状態を平和というのではない。
戦争の起きる前には、必ず差別など人権の抑圧があり、
そういう状態を平和とは呼ばないと。

いじめのあとには何がある?

校内暴力を封じ込めれば、いじめが、
いじめを封じ込めれば、
今度は関心は内へ内へ向き、
自傷行為にはしるこどもが増える。
それもこれも、すべて封じ込めることができたとしたら、
今度は「はけ口」はどこに向かうのだろう。

おさえつけて表現されなかった
感情・想い・ストレスは、
体の中で抑圧され、はけ口を求め、
いつか何か全然別のカタチとなって現れる。

平和な光景といえば、
不思議なことに、
あるカップルのケンカを思い出す。

その男女は恋人同士で、
私を誘って、よく飲みに行ったり、
泊りがけで旅行に行ったりしてくれた。
愛ある仲のよいカップルなのだが、
ある話題になると、どーしてもケンカになった。

それが他人から見れば、たわいのない話で、
太っていることで役がもらえていたある女優さんが
ダイエットして痩せてきれいになった。

カップルの女のほうはそれがいいことだと褒め。
男の方は体格女優が痩せてどうすると否定する。
その話題になると、激しくぶつかり合う。

どちらも本気、一歩も譲らない。
理論と感覚、感情の粋をこらして全力で言い合う。
2人とも自立した大人で
世に言うクリエイティブな仕事にそれぞれ就いていた。

私がその現場にいあわせたことも1度や2度ではない。
だからもっともっと
2人は幾度となくそこでぶつかってるはずだ。
だが、あきもせず、妥協なく、いつも大真面目に、
いつも初めてのように、ケンカを繰り広げた。

不思議といやではなく、
「ああ、仲がよいのだなあ…」と、
そのケンカをいつまでも聞いていたいような私だった。

ただ私はそのケンカにはいっていけず。
そこに他人が踏み込めない二人の世界があることを感じた。

二人はあとくされがなく、
しばらくするとケロッとして、私相手におもしろい
まるでコントのような話を繰り広げてくれる。
息があったときもぴったりで、ユーモアもセンスも
二人だけの、あうんの世界があるような気がした。

人がケンカをすることが、不思議といやではない。

職場でも、ずっとがまんしてた後輩が、ある日
「だったら先輩が自分でやればいいでしょう!」
たまった鬱憤をぶちまける、
そう言われた先輩の表情がサッと変わり、
「ちょっと待った!そりゃちがう!」
と応戦する。
そんな現場にいあわせると、
いいぞ! おもいっきりやれ! という感じになる。

そういうふうに、たまに、
感情や思想やエネルギーを
ぶつけ合うのって必要だなと思うし。
自分がケンカをしているわけではないのに、
自分が水面下に抑圧している日ごろの鬱憤まで、
言葉となり、態度となり、
カタチとなって水面に現れたような、
心のふたが取れたような感覚になる。

だけど、たいてい学級委員のような役割の人がいて、
「まあまあまあ……」となだめたり、
「先輩に対して口を慎みなさい」と叱ったり、
とにかく押さえ込んだりしてけんかを封鎖してしまう。

取っ組み合いではないのだ。
口ゲンカくらい、正々堂々と、
気が済むまでやらせてあげればいいのに。
言葉化されなかった水面下の想いはどこへいくのだろう?
そのまま体に留まって、しこりになるんだろうか。

その人の根っこにあるものが、
できるだけ抑圧されず、
水面にきちんと言葉を与えられ、現れ出た世界。
私の考える平和な風景とは、
そんな世界かもしれない。

想いと言葉の通じがよくなり、
よく想いを表せば、
違う人間同士、
ぶつかることも増えてくる。

あっちでも、こっちでも
言葉による小さなぶつかり合いが、
はっきりと、しょっちゅう起こり、
水面下の想いが
陰湿なはけ口を求めて暴走することが少ない、
そんなビジョンを私は抱く。

いじめとけんかはちがう。

ケンカは、1対1で、対等な立場でするものだし、
レベルがちがいすぎるとケンカにならない。
ケンカはときに、好敵手や、友情も生む。

口ゲンカが単なるののしりあい、
互いのけなしあいになるのでなく、
上記のカップルのように、テーマをはさんで、
互いの考えと考えで
ぶつかりあえるようになるまでには、
そうとうに知的・精神的な体力と、
言葉のトレーニングがいる。

私も小さいころから
4歳上の姉としょっちゅうケンカをしたが、
それを通して、ずいぶん鍛えられ、
理屈は達者になったと思う。
よく、上の子より下の子のほうが
口が立つと言われるのもうなずける。
小さいころの1歳差は、
ずいぶんな言語能力の差であり、
下の子は、場合によっては
何歳も上の子を相手に戦うのだから、
言葉が鍛えられないはずはない。

例のカップルは事情があって
結婚することがない立場だったが、
そのことについて暗くなったり、
愚痴をきいたりしたことが私は一度もなく、
それどころか、いつも
まわりまで明るくしてくれるカップルだった。

どうにも通じ合えない
考え方とか、生き方とか、想いとかは、
どんなカップルにもあり、
どんなカップルにも暗い部分はある。
でも、例のカップルは、
お互いの欠点をつつきあったりなどせず、
テーマをはさんで、
堂々と、本気でぶつかりあうことで、
そのどうにもできないエネルギーをぶつけ合い、
発散しあっていたのではないか。
2人にとってケンカはスポーツのようなものだった。

だから「またはじまった…」と思う私の中に、
「平和だな」という想いがあった。

いじめのあとになにがある?

いじめから一気に完全無欠の争いのない世界を
目指すんじゃなくて、
誤解を恐れずに言えば、
「いじめ」をいったん、「けんか」に昇格させて、
抑圧された悪意やストレスの
より健康な発路をつくり、
問題を封鎖せず、表面に出させたうえで、
そこから次のビジョンを
考えるという手もあるんじゃないか。

私にとって平和な風景とは、けんかのある風景なのだ。

けんかにもレベルがあり、
レベルを上げる鍛錬がいると私は思う。

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2007-01-24-WED
YAMADA
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