YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson328  氷解させる言葉


*来週13日休載します。
 生まれて初めて小学校に授業にいくことになり、
 渾身で臨む所存です。
 その模様は下記のページで後日お伝えします。

 http://www.authorvisit.jp/report_jh/20061124_yamada.html

先日、
数百人の受験生にむけ、小論文の講演をしたあと、
クライアントの1人が近寄ってきて言った。

「ズーニー先生、
 生徒の手元にくばった資料なんですけど……、
 1まいの紙に2ページはいるよう、
 こちらで勝手に縮小させていただいてまして……」

それで、私が言う「何ページ目」と、
生徒の手元の「何枚め」がズレたところがあった、
でも、講演全体にはなんの支障もなかったからと、
とくにわるびれたようすもなく、
クライアントは、生徒にくばった資料を差し出した。

それを見て、身が凍る想いがした。

私が、生徒が読みやすいようにと工夫をこらした資料が、
くどいほどに、
パソコンでの受信、打ち出し、コピーのしかたに
注意してくれと、こまかい指示を出してたのんだ資料が、

無残に縮小され、文字はひどく細かく、よみづらく、
あろうことか、文章の途中で切れて、
縦書きから、急に横書きにかわり、
不自然なアキが出た箇所まであった。

わな、わな、わな……と戦慄が走った。

講演前に現物を確認しなかった私がわるい。
いままでこのクライアントとは百講演以上やってきて
後にも先にも
こうしたトラブルが一度もなかったので油断した。

形相の変わった私に
なにを大げさなという感じで、クライアントは言った。

「うちの部署では、会議のとき、いつも、
 パワーポイントなどのプレゼン資料は
 こうして、1枚に2ページはいるように縮小して
 手元にくばる慣例になっています。」

会議のレジュメといっしょにされたことがカチン!
とささり、私は声を荒げて言った。

「受験生のことを考えてください!
 私は演台でスクリーンに映し出す映像と、
 生徒の手元に配る資料は、
 ぜんぜん別物として、
 それぞれに工夫してつくっているんです!」

スクリーンに次に映し出されることを、
あらかじめ手元資料として配ってしまったら、
生徒は予定調和に感じてしまう。
手元に配るものは、
空欄をつくって講演の内容にひきつけたり、
作業させたり、持ち帰って復習するのに役立てたり。

つまり、手元に配る意味・必然性のあるものだけだ。

私は、生徒の満足度が、
たぶん最も厳しく調査・検証される企業で
教材編集者として16年近く、たたきあげられてきた。

活字を読まない人たちに、
いかにこちらの伝えたい内容を伝え、理解してもらうか?

そのためには、内容もさることながら、
生徒の目の流れをさまたげないような
レイアウトや文字の大きさ、
つまり、
「視覚的な効果」もとてもたいせつになってくる。

生徒への配布資料は私の、
編集者としての経験と創意をこめて編集したものだった。

しかし、そのことを訴えても、相手はピンとこない。
それどころか、私の強い語調から、
たかが資料の細かいことに、こだわり、文句を言う、
うるさいやつだと感じたらしい。
相手は「ここは謝っておけば…」モードに
ギヤをいれてしまった。
「うちの社に持ち帰って会議で徹底しますから」とか、
「今後、うちの社を悪く思わないでください、
 他はきちんとやってますんで」とか……、

ちがう。

「私は、小論文への生徒のモチベーションを
 引き出したいんです!
 小論文っておもしろいと感じ、好きになってほしい。
 そのためには、パッと見たときの印象も大事です。
 ひと目見て、資料が途切れたり、
 タテヨコになっていたら、
 こちらのきちんとした姿勢が伝わらない!」

言えば言うほど……、

相手にとって私は、
細かいことにこだわりをもつ、
うるさい、嫌な奴になっていく。
「それはそうだろうな……」
そのことが、どこか冷静に自分でもわかる。

でも、自分の腹の中はどうにもならず、
かえすがえすも、読みづらい資料に、
潜在的なストレスを感じ、
講義をうけた生徒のことを思うと
たまらない。
きちんとした資料でやれたなら、もっとスムーズに
生徒の頭にはいっていき、
生徒はもっとやる気がわいたのに。
持ち帰っての復習も、もっとモチベーションがあがるのに。
という悔しさと憤りがとぐろをまいて増幅する。

これ以上言っても、相手に伝わらない。
そればかりか、フリーランスで仕事をする、
自分の今後の信用にもさしさわる。
「ここは押さえろ自分、踏みとどまれ自分」と
言い聞かせても、腹の中の塊がわんわんと唸りをあげ、
このようになってしまったら自分では、どうしようもない。

抑えても、抑えても、
まったくかみ合わないやりとりに
ますます神経がさかなでされ、
私はもう、爆発寸前だった。

そのとき、

最初からずっーと、そのやりとりを黙ってきいていた
仕事仲間のH先生が、しずかに、こう言った。

「やまださんが、たいせつにしてきたことですよね……。」

一瞬、頭は言葉を理解できなかった。
一瞬の間をおいて、
「生徒への資料づくりは山田さんがずっと
 大切にしてきたことですよね」
あるいは、
「このように細部まで神経をいきとどかせて
 生徒に歓んでもらうことは、
 山田さんがずっと大切にしてきたことですよね」
という意味にも、どちらにもとれるな、と思った。

カウンセラーをしていて、いわばプロであるH先生が、
満を持してかけてくださった言葉は、
頭で考えれば、「それがどうした」というような、
意外なほどに、ささやかな言葉だった。

それくらいのことを言われたぐらいで、
こんな場でなんになる、
それよりも、
このクライアントに私の言い分を通じさせねば!と、
私の口は、その先の、
もっと怒りのつまった言葉を言おうとして、
ぎょっ、とした。

言葉がでない。

どうしたんだろう。
あの胃の奥あたりに、沸き出でて、
どんどん硬くなっていった塊が、
神経を逆なでされるたびに、憎悪を帯びて、熱を帯び
どんどん硬く、増幅していった腹の塊が、

頭とはうらはらに、すーっと解けていく。

それでも意識はまだ、何か言おうと口をパクパクしたが、
もうそれ以上、この件を追求しようにも、
まったく何も言えない、もう何も言う必要がないという
穏やかな内面にもどっていってしまっていた。

一瞬のうちに、私は気がすんでいた。

私は、身に起きた変化が理解できなくて、
しばらくきつねにつままれたような感じになった。
そのあと午後の講演も、
自分で制御したり努力したりしなくても、
自然と落ち着いて、前に向かった気持ちになり、
持てる力をまっすぐ出せた。

「松の要約」

しばらくたって、
H先生の言葉をずーーっと考えていた私に、
ふと、以前このコラムでも説明した
「松の要約」という言葉が浮上してきた。

要約にも松・竹・梅の3段階がある。

たとえば
3000字くらいの文章を要約しなさいといわれ、
「梅」の要約力の子は、うまく要約することができない。
「竹」の要約力の子は、400字くらいに、
その文章に書いてあるままの言葉を
切って、つないで、縮めて、短く、まとめることはできる。

しかし、「松」の要約力がある子は、
筆者が文字に書いてあることを縮めるのでなく、
筆者がそもそもなぜ、その文章を書いたのか、
その文章を書いてどうしたいのか、まで読んで、
筆者が本当に言いたかったことを
40字以内、ほぼ一文で、
自分の言葉で、適確にいいあてる。

「松の要約」。

H先生がわたしにやったことは、まさにこれだった。
あのとき、私はたくさんのことをクライアントに言った。
「生徒のモチベーション」とか、
「プロとしての責任」とか、
「視覚効果とか」とか、
だけど、その根っこには、
「私が一生懸命つくった資料を
 私が感じているのと同じ大切さで
 相手にも大切に想ってほしい」という
ひじょうに原始的で、切なる想いがあったように思う。

言いたくても、言えない。
そもそも、自分でもつかみきれてない、
それゆえ、外にだせなくて、もがき、
わだかまり、塊と化していったその想いが、

おもいもよらず、第三者の口から出てきたら……?

H先生にわかってもらえたということよりも、
なによりも、
「あ、それがまさに自分の言いたいことだ!」
そのことに、氷解していく想いがあった。

「死を思いとどまらせる言葉」を、
ここ数回のシリーズで考えてきた。

さんざん引っぱってきて、
こんなことかと思われるかもしれないが、

その人がこれまで好きだったものはなにか、
その人が大切に想い、
大切にしてきたことはなにか、
可能なかぎり調べに調べ、考えに考えて、

「○○ちゃん、ずっと○○○○んだよね。」

と、この空欄に生涯をかけた松の要約を入れる。
それがいまの自分に考えうる、唯一、精一杯だと思う。

私が言いたいことではなく、
相手が言わんとするところを、極力短く言う。
最上級の要約をとどける。

私が仕事を通して、
人より長い時間をかけてやってきたことは要約だ。
「要するに…、要するに…」でものを読み、
「要するに…、要するに…」でものを書く、
それが、わずか400字とか600字とかの小論文の世界だ。

以前、ワークショップに、
「自分は、生と死の天秤ばかりの中央にいる。
自分は生でも、死でも、どちらか、より強く
自分の手を引いてくれた方に行こうと思っているのだが、
生も死も、両方とも、いつも同じ力でしか引っぱってくれない」
という生徒さんがいた。

相互にインタビューしあい、
相手の想いを引き出すワークで、
この生徒さんの話を30分かけて聞いていた人が、
最後の最後、ひと言で、
この生徒さんの本当に言いたいことを要約した。
それは、

「生きたい」

だった。
「あなたは要するに30分かけてずっと、
 “生きたい”と言っていましたよ」と。
これには本人のみならず、
場にいるだれもが胸を打たれた。

死を思いつめた人が、
ほんとうに言いたいことは、
決して「死にたい」ではない、
と私は信じたい。

死を手段としてまで言いたい
あるいは死を手段に選んでもなお言いきれない、
なにか「想い」のようなものが、まだある、
そういう気がしてならない。

その「想い」が、だれか第三者の口を通してでもいい、
言葉になって、体の外に出たとしたら、

それが、その先、伝わるか伝わらないか、でなく
理解されるかされないか、でもなく、

「自分の言いたいことは、まさにそれだ!」

という想い、そのことだけで、
凍りついた塊は、
ささやかでもほどかれるのではないか。

本当のことが言えたとき、人には深い内的な満足がある。

松の要約は、
なにか、かけらでも、
そのアシストになるのではないだろうか。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2006-12-06-WED
YAMADA
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