YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson320 批判のサイズ

先日、いやなメールを受け取った。

良い、悪い、でなく、
正しいか、間違っているか、でもない。

「なんか」いや、なのだ。

私は常日ごろ、
「なんか」は偉大だと思っている。
初対面の人でも、一発で
「この人、なんかいい」と感じる印象は、
あとあとになっても裏切られないことが多い。

逆に人から嫌われるとき、
「あなたのこういうとこもいいし、
 こういうとこもいい、だけど、
 なんか好きになれない」
というのが、いちばんこたえるだろうと思う。

ずっとずっと、あとになってふり返ると、
「なんか」には理由がある。
そのときは、わからなくても。

それで、そのメールの「なんか」の正体は何?

と、ずーっと、ずっと、考えてわかったことがある。
人にものを言うときの「サイズ」だ。

きょうは、人に批判・異議をとなえるときの心得を、
表現のサイズに着目して考えてみたい。

これは決して、
私がいやと感じるメールを出す人々への反論ではない。
信じてほしい。

なぜ書くか?
反省をこめ、自分のために書く。

自分は、ものごとを批判的に観る方だし、
思ったことを言わずにおられない性分だ。
メールでは決して批判はしないが、
対面では、人に批判や異議をとなえることも多い。

そういうときに、ただ「なんかこの人いやだ」で、
私自身が片づけられてしまわないように、
本来のメッセージが通じるように、
自分のための「批判の心得帳」を持つことにしたい。

さて、私自身が批判を受けるときに、
如実に嫌だと反応する言葉がある。

それは、「最近」という言葉だ。

「最近」という言葉は、
プラスのことを言われる時には、使われてうれしい。

「最近、のってるね!」
「最近、きみ、なんかいいね!」

しかし、マイナスのことを言われるとき、
この言葉が入ると、ぐっと負担が増す。

例えば、上司からダメだしをされるとき、
「田中くん、今日の午後のプレゼンでは、
 目標数値をあげるところが、キレがなかったね」
といわれた場合と、
「田中くん、最近、仕事にキレがないね」
といわれた場合と、
心理的な負担をイメージしてみる。

私は、後者の方が心理的な負担がずっと大きいと思う。
それでいて、改善に向けて、
どう動いていいかわからない。

「最近」という言葉は、
扱う範囲がとても大きい、それでいて曖昧だ。

言う方にとっては、「なんとなく」「なんか」という
ニュアンスを込めやすいし、
問題点を具体化しなくていいから、便利だけど、

受け取るほうにとっては、
範囲が大きく曖昧な分、正体がつかみにくく、
いたずらに、不安要素が増える言葉だ。
時と、受け取られ方によっては、
相手の最近の全否定にとられかねない。

「批判をするとき、対象は必要最小限に絞る」

自分の心得帳には、まず、そう書いておきたい。
批判をするとき、
「最近」とか、「全体的に」とか、
まずドンと大きいサイズを対象にしてしまって、
それから、ものを言うと、
どうも話が大きくなってしまう。

「この日、この時の、この部分」というように、
あらかじめ、批判の対象とするもののサイズを小さく、
必要最小限に絞り込んでから、はじめたい。

たとえそれが、
「あなたのすることなすこと全部」と言いたい、
そうとしか言えないような場合でも、
全部を否定すれば、それだけ相手の抵抗は強く、
すんなりと相手に入っていかない場合が多い。
全否定して、全面拒否されるよりも、

最も問題だと感じるもの
たった1つに絞り、それに象徴させる

という手がある。
たとえば、
「最近、部下の態度がゆるみきっている」
というとき、全部を批判して、
結局、全部聞き入れられない、よりも、
最もゆるみを象徴する1つの事項に限定して注意し、
ただし、それは、伝えきることを目指す。

部下は、その1つの事項を聞き入れ、
改善することを通して、
結果的に、自分の全体的なゆるみに、自分で気づく
という図式だ。

さて、私自身が批判を受けるときに、
嫌だと反応するもの、2つ目は、
「読者を代表して」というもの言いだ。

私のコラムを批判するときに、
読んだ人が、
「私はここがわからなかった」
「俺はここが気に入らない」
というのならいいのだけど、
「読者の中には、
こういうことがわからない人も多いのだから
もっと配慮してあげてください」
「読者を代表して、ひとこと言わせていただきます」
というようなもの言いは、すんなり入ってこない。

「批判をするときは、ひとり、一人分」

この言葉は、
以前このコラムで批判の条件を扱ったとき、
読者の方からいただいたものだ。
この名言を、自分の心得帳に書いておきたい。

自分ひとり分の批判は相手にしていい。
でも、隣りの人の分まで、背負うことはできない。
隣りの人の分は、
隣りの人と相手がまず話し合っていくべきで。
ましてや「みんな」の分を背負うことなど、
代表権でももらわないかぎり、できないことだ。

私も、人に異議をとなえるとき、つい心細いので、
「他の人も言ってる」とか、「みんな言ってる」とか、
「消費者を代表して」というように、
つい、1人称に他の人を背負いたくなる。
しかし、そうやって、
1人称のサイズをデカくすることが、
かえって、自分の発言をみすぼらしく見せてしまう。

1人称のサイズと、
発言の内容はつりあっているのが美しい。
多くを代表する1人称には、
それなりの発言内容が求められる。

1人称「自分」で、等身大、ひとり分の異議をとなえる、
そこを基本と心得よう。

私の批判の心得帳に刻む3つめは、

「丘から見下ろすな、
 まともに相手の言っている内容にはまって、もがけ」

ということだ。
これには、異議を感じる人が多いと思う。
批判にしろ、なんにしろ、伝えるには、
客観的であること、
つまり、「丘からの視線」が求められがちだ。

傍目八目とは、よくいったもので、
私自身、ちょっと引いて、高い所から見ていると、
人の欠点はよく見える。
そうすると、つい、ああした方がいい、こうしろ、と
相手に指図をしたくなる。

でも、私自身が批判をうけるとき、
どうしてか、丘から見下ろすもの言いは、
すんなりと入ってこない。
私に謙虚さがないと言えば、それまでなのだが。

私は私で、毎回、ここで、言いたいことがあって、
テーマがある。

丘から見下ろす人は、その内容に正面から入って、
うんぬんする、ということはない。
「そもそも、最近のあなたのスタンスが……」
というように、
視野の大きいところから、引いた目で批評し、
こうしなさいと、つまり、私に「変われ」と要求する。

でも、自分の心にすんなりと入ってきて、
ほんとうに「悪かったなあ…」「痛てて…」と私が、
心から反省するのは、
私の、その回のテーマ、内容に、
もろにはまって、もがく人の、切実な違和感なのだ。

大上段に「文章を短くしろ」と言われるよりも、
「今回のテーマ、何回も何回も考えて、
 自分なりに、ここまでは、わかりました。
 だけど、ズーニーさんの言ってる、ここが、
 噛んでも噛んでも飲み込めない」
といわれた方が、
「ああ、説明がまわりくどかったな、
 あの部分はカットできたかもしれない、
 もっと簡潔に書けたのに、
 我が出てしまった……」と、
たとえばそんな具合に、気づかされることが大きい。
「次はもっとおもしろくしよう」と、身がひきしまる。

以上、批判の心得の3つのさかさまをやると、
相手の大きく
曖昧な範囲を対象にし、(対象のサイズが大きい)
多くの人を代表して、(一人称のサイズが大きい)
丘から見下ろす視線で(視野のとり方が高く、大きい)
相手を批判する、ということになる。

サイズの大きい批判をして、
大きく相手を変えてやろうとしても、
案外、相手が変わらないのが、
このパターンかもしれない。

必要最小限の表現というものは、
サイズが小さく、個別で、具体的で、
下から目線で入っていくだけに、
すんなりと相手の心にしみて、
心の一角を揺るがし、
やがて波及して、ガラガラと相手を変えることもある。

「ミニマムでいこう」

私の批判心得帳にはそう書いておこうと思う。

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お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-10-11-WED
YAMADA
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