YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson315 「私を見て」という表現 2

ネットにものを書いてきて、
不思議でならなかったのは、
私だったら初対面の人にはとても言えないような、
重い打ちあけ話をしてくる人がいることだ。

もちろん、どんな重く暗い経験でも、
それを通して、
ここで扱っているテーマ、
例えば、コミュニケーションとか、
表現すること、伝えること
について、自分の問題意識や考えを送ってくれるのは、
大歓迎だ。
「潔く、よくぞ、その経験を話してくれた
 さぞ、勇気がいったでしょう」とお礼を言いたくなる。
人の、勇気ある経験談を通じて、この6年間に、
私もずいぶん勉強させてもらった。

そうではなく、
テーマにまったく関係なく、
いきなり、一方的に、身の上話をしてくる。
だれかに聞いてもらいたい、
場合によっては、なぐさめてもらいたい、
極端なことを言えば、
それで「愛情をかけてほしい」というようなメールが
数は少ないのだが、やっぱりあって。

それは、このところ、目だってきているように
私の感覚として思う。

初対面どころか、一度も顔を合わせたことのない私に、
どうして、重い身の上を打ちあけることができるのか?

ネットにメールを書くことは、
おおやけの広場に意見文を掲示するような、
感覚だと私はとらえている。
内内に話せないことが、なぜ公に出せるのか。

そして、私がそういうメールを目にしたときの
なんとも「気持ちの悪い」感じはなんだろう?

そのメールが気持ち悪いのではない。
その人が気持ち悪いのでもない。
この現象が、どこか気持ち悪く、危うい感じがする。

何が気持ち悪いかと考えて、
人間関係の「遠近感」がおかしい、と私は思う。

たしかに、
赤の他人だからこそ、言える
ということは、わかる。

「王様の耳はロバの耳」の穴のように、
だれにも言えない、行き場のない想いを捨てにくる。

だったら私は廃棄物処理場か?

とへこんだ時期もあったけれど、
どうもそうではないような気がする。
行き場のない想いを、ただどこかに捨てたいだけなら、
もっとひっそりやる。

だったら私は駆け込み寺か?

ともおもった。だったら、おかど違い。
この「おとなの小論文教室。」は、
考える筋肉のトレーニングジムとか、
考える道場だと思っている。
未完成でも、へたでもいい、
自分の問題意識や考えをばんばんぶつけて育つ場だ。

だけど、重い打ちあけ話をしてくる人は、
ここを
駆け込み寺にしようとしているのでもなさそうなのだ。
実際、そういう
受け皿として機能しているネットもあるわけだし、
だったら、そっちの相談窓口で相談した方がいいのだし。

そういう人は、私を簡便な避難所や捨て場として
都合よく利用しようとしているのではない。
だったらへこむけれども、なんとなくわかる気がする。
なにせ私はその人にとって、遠い他人だから、と。
でも、そうではなく、
そういう人のメールはもっと丁寧な……。

誤解を恐れずに言えば、
そういう人にとって私は、もしかしたら身近な人よりも、
心理的に距離が近いのではないか?

だったら、それは、ものすごく危ういことだ。

小論文入試には、
毎年、先端の社会問題が出される。
今年いちばん衝撃を受けたのが、
家族の「個人」への流れだ。

家族のあり方が、「個」へ、「個」へ、と向かっている。

どういうことかというと、
例えば、「食べる」ということで。
私の見た入試問題を自分の言葉でかいつまんでいうと、

もののない時代には、「食事」は一大事で、
食料の調達も、調理も、いちいち大変で、
家族が助け合って、食べるものを調達し、つくり、
同じ時間に集まって、
分け合って、場合によってはとりあって、
食べる必要があった。
それ以外に、食事の調達の道がなかったからだ。

ところが、いま、
食事はそんなに大変なことじゃなくなった。
何か買って食べれば済むことだし、
外食も発達しているし、
子どもでもチンすれば
簡単に結構おいしいものがつくれてしまう。

そうすると、家族がわざわざ集まって、
好き嫌いを調整しあわなくても、
あなたはカレー、私はラーメン、私はチャーハンと、
それぞれ別々の
好きなものを食べるという光景が生まれている。

もっとすすんで、忙しい生活の中、
お互い、待ったり、急いで帰ったりしないで、
自分の都合のいい時間に、一人ですばやく、
自分のいちばん食べたいもので済ませる。

個食、孤食。

もっとびっくりしたのは、「居間のない家」だ。

私の家もそうだが、家族で住む家は、
これまで当然のように、「居間」を中心に考えた。
個室は、必要最小限でよかった。
たとえば、こどもの勉強部屋が、あるにはあるが、
あくまで生活の大半は居間で過ごすのだから、
居間を大きく取って、勉強するときだけの子ども部屋は、
申しわけ程度の、小さな個室でかまわなかった。
ちなみに私の家には、父の個室も、母の個室もない。
それは珍しくなかった。

ところが、今年、
入試で目にした家族で住む家の設計図に、
もはや、「居間」はなかった。

家族の家の設計図には、父の個室と、母の個室と
長男か長女の個室が、それぞれ広くとってある。
あとは、風呂・キッチン・トイレなどの必要スペースと、
家族が週に一度なり、集まりたいときだけ集まれる、
中庭なり、廊下なりの集会スペース。

家族が、家に帰っても、居間を経由せず、
すぐ自分の部屋に行き、
テレビもそれぞれ自分の部屋で見、
自分の部屋から、携帯やパソコンを通して
直接、人や社会とつながり、
場合によっては食事も、
自分の部屋で買ってきたもので済ませ。
それぞれ、自分の部屋で眠る。

だったら、広い居間と、申しわけ程度の個室でなく、
最初から「個室中心」の住宅を設計する。
これまでの家づくりでは現実に合わなくなってきており、
少しずつだが、こうした
新しい家づくりが提示されてきているということで、
入試ではその設計図を見せて、
受験生の考えを問うていた。

同時にこの問題は、
家族とは何か、幸せとは何かを問うていた。

私は、先々週のコラム、
Lesson313「私を見てという表現」で、
どんなに自分のつらい体験を話しても、
最終的に言いたいことが、「私を見てくれ」じゃ、
厳しい言い方だが、
赤の他人から見て面白いテーマではない、
というようなことを言った。

しかし、唯一、
「私を見てくれ」が通用するのは、身内だ。

家族・恋人・友人。
家族には、「私を見てくれ」というテーマが
どうどうとまかりとおり、
家族の方も、おもしろがって、かわいいとおもって、
場合によってはしかたがないとあきらめて、
親身になって、許してくれる。

わかってくれ、愛をくれ、も
はばからず要求でき、
決してギブ・アンド・テイクでなくても、
テイク・テイクの関係でさえも、家族内では許され。

家という空間に、互いに身を投げ出しあい、
他人には言えない身の内もさらしあい。
それでも、許し合う。

そうおもうと、家族や恋人や友人といった存在は、
他にとっかえがきかない存在だ。

そういう「内」があって、
はじめて、そうではない、
他人という距離のある「外」ができる。

公的な場で、あるいは、距離のある他人に対して、
知らず知らずのうちに、
「私を見てくれ」という
表現になってしまっている人を見ると、
この遠近感が、くずれているんじゃないかなと思う。

どうしてかわからないが、そういうときは、
身内というものがうまく機能してないのではないか。

家族がうまく機能してないとか、
家族や恋人や友人にさえ何らかの緊張が生じているとか。

メールやネットが発達して、
私たちは、共通の目的・趣味・感性を持つ、
遠い他人と、言葉を通してつながるようになった。
言葉は意味だから、
好きなものを介してつながる、
いわば、「意味あるつながり」だ。

反対に、私たちは、自分のすぐとなりにいる、
共通の目的も趣味もない、感性も会わない人と、
いわば、言葉のあわない人と、
意味もなくつるむ力は弱っているように思う。

すぐそばにいる人との、意味のないつながりよりも、
遠くにいる人との意味あるつながりを求める。

たとえば、世代も感性もちがう、
お父さんと居間で話すより、
自分の部屋で、ネットで
「好きなもの」を介してつながるというように。

家族や恋人や友人が、
いま、いる人も、いない人も、
なんらかの「家族的なつながり」を
築いていく必要があると
私は、思う。

顔が見え、肌の触れ合う距離にいる人間との間に、
まずは、一人に。
意味なんかなくていい。
時間がかかってもいいから。
ただ同じ場に、身を置いて、
ただとうとうとばかばなしをしても許され、
ただ一緒にメシをくっても、許される、許しあえる、
身内の関係を、なんとか、つくっていく必要がある。

私たちは、身近な人と、もっと関わらなければならない。

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『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社




『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-09-06-WED
YAMADA
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