YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson305 ひとつ上の、人をわかる力


このところ、ずっとひっかかっていたことがある。
それは、

「できの悪いコラムに、なぜ
 できのいい読者メールが、たくさん返ってくるのか?」

ということだ。

ふつう、
いいものが書けた時 → いい反響がたくさん返ってくる
いいものが書けなかった時 → 反応がうすい
と、考えがちだ。

たしかに、そういうときもある、
しかし、意外にそうでもない。

自分で納得するものが書けて、
文章を観るプロの編集者さんたち、複数からも、
あとで「あれはよかった」と褒めてもらえるようなとき、
意外に反応のメールが少なくて、さみしいことがある。

自分で想う域まで、どーしても浮上させられず、
あとから編集者さん複数の反応をみても、
客観的にできが悪かったんだな、と思うような回に、

意外なことに、読者から
質のいいメールがたくさん来ることがある。

どうしてだろう?

とおりいっぺんのことは考えた。
完成度が出たコラムは、ツッコミの余地が少なく、
読者は読んで、納得して、だまっている。
一方、できが悪いものは、
敷居が低く、多くの人がツッコミを入れやすい。

しかし、今年になって少なくとも2回はあった
この現象は、どうも、その類いのものではない。

たとえがわるいかもしれないのだけど、
バカボンのパパに、なぜ、あんないい奥さんがくるのか?
美人で、賢い、だけでなく、優しくて、
しっかりものの奥さんが。
いってみれば、あんな感じなのだ。

先日のLesson303「表現の体力」は、
コラムの出来としてはあまりよくなかった。
最後の最後まで、大学の講義に向かう電車の中まで
ねばって、ねばって書いたのだけれど、
「これだ!」
という域まで浮上させられず、時間切れとなった。
しかし、このコラムには、
いい内容のメールがたくさん来た。
(このメールについては後日、紹介したい。)

何がいいか、というと、

コラムには提示されていない、
独自の観点が提供されていることだ。

コラムに提示された意見について、
「そうそう」と共感する、
あるいは、自分の体験で肉付けする、
あるいは、「それはちがう」と反発する、
これだけでも、すごいことだ。
「理解」が前提となるからだ。

そこから、さらに進んで、
「私はこのテーマ、こういう観点からも考えましたよ」
と、独自の新しい観点を提供するのは、
難度の高い行為だ。

このときよせられたメールには、
独自の新しい観点を提供していて、
しかも、その観点が読者それぞれにちがっていて、
読んでいて、気づきが多く、学ぶことの多いものだった。

これがもし、小論文の出題だとしたら、
意図して、そのような質の高い答案を、
生徒からたくさん出させるようにするのは難しい。

小論文を高校生に書かせるとき、
出題のしかた次第で、答案はよくも悪くもなる。
出題のしかたがまずいと、答案が、
みんな金太郎飴のように画一的になってしまう。

どんな出題が、よく生徒の思考を引き出すのか?

これには、私も、さんざん頭を悩ませてきた。
出題の資料文として提供する文章が
おもしろいから、
生徒の答案もおもしろくなるとは限らない。

かえって資料文のインパクトに引きずられて、
資料文をなぞったような
答案続出ということにもなりかねない。

これは、インタビューにも言えることで、
優秀な質問、イコール
相手の内面をよく引き出すとは限らない。
たとえば「好きな食べ物は?」というような、
くだらない質問が、
意外な相手の一面を引き出すことがある。

いい質問が、必ずしも、
いい思考を引き出すわけではない。
いいコラムが必ずしも
読者のいい思考を引き出すわけではない。

それが、なぜかわからなくて、ひっかかっていた。

このLesson303には、1通だけ、
「つまらない!」と吐き捨てるようなメールもきた。
このほぼ日で6年執筆していて、
こういうメールがくることは、ほとんどといって、ない。
めったにないから、ひっかかっていた。

つまらないと感じることと、
相手を責めるという行為に出る、ということには、
現実には、かなり、ひらきがある。
なのに、なぜ、この人は、わざわざ労力をつかって
メールを書いて、非難せずにはおられなかったのだろう?

先日。

大学の講義のあと、
教授たちと「若者の読解力」の話になった。

読解力には松・竹・梅の3段階がある。
長めの文章を読んで要約しなさい、というとき、

松の人は、筆者のいわんとすることを、自分の言葉で
40字以内(ほとんど1文)で、要約できる。

竹の人は、
筆者がそこに書いてあるとおりの言葉を使って、
文章を削ったり、つないだりして
400字くらいになら、縮められる。

梅の人は、うまく要約ができない。

ラブレターにたとえると、
「こんどの休みは暇ですか、私も暇なんですけど…」
と、まわりくどいことが
えんえん便箋5枚にわたって書かれ、
核心のことが書けていないラブレターを要約するときに、

梅の人は、要約することができない。
竹の人は、
「今度の休みが暇なら、
 私と一緒に……へ行ってくれませんか」
というように、そこに書いてある言葉を、
切ったり張ったりしながら
400字くらいに縮めることはできる。

松の人になると、
「要するに…要するに…筆者は何がいいたいのか」
と考えて、
たとえ文面にはいっさい登場しない言葉でも、
自分の言葉を使って、「好き」と2文字で要約する。
要するに
筆者は相手に向かって「好き」と言っている、と。

教授いわく、
梅の人を、教育で竹に引き上げるのは、できるのだが、
竹の人を松に引き上げるのは、非常に難しい。

つまり、文面に書いてあることを、書いてあるまんま、
読み取れる人、読み取れるようになる人は多いのだが、
「筆者がなぜ、この文章を書き、
 これを書いてどうしようとしているのだろう」
という、字面にないところまでを汲み取って、
人の言っていることを要約できる人は少なく、
そこを、教育で引き上げるのも難しいのだと。

社会に出て、現場で求められる読解力とは、
ほとんどが、松の要約力だ。
「要するに…、要するに…」で、相手をわかる力。

なにか、よいトレーニング方法はないか、
と聞かれ、私には、思い当たるものが三つあった。

ひとつは、「速読一文要約」。
1万字程度の文章を15分で読み、
筆者が言わんとすることを、一文で言うトレーニング。

もうひとつが「要約の復元」。
要約ドリルなどで答えとして出ている、
すでに要約された解答100字なら100字を見て、
もとの文章を想像して、
筆者になったつもりで800字くらいで復元してみる。

最後、三つ目が、「結論の再生」。
評論文などの、筆者がもっとも言いたい核心部分
=たいていは結論部を、段落ごとごっそり隠しておいて、
筆者になったつもりで、
その結論を自分の言葉で書いてみる。
結論までの文章を、
とおりいっぺんに読むのではできない。
筆者の文章を、書いた動機や価値観、
意図にまで迫って読むことが求められるから、
松の読解力が鍛えられる。

大学の講義から帰り、
私はふと、「霧の中のモンスター」の話を思い出した。
山で遭難した人が、霧の中のモンスターにおびえる、
だが、実は、自分の影だった。

できの悪いものをみたとき、
そっとしておくか? 責めるか? 優しさがでるか?
きつい言葉で責めずにはおられない心理というのは、
「余裕」がないからではないか、ふと思った。

つまり、自分も
他者から出来の悪さを非難される状況にあるか、
あるいは、いつか出来の悪さを非難されるのではないか
という不安に、潜在的におびえているか、
いずれにしても、いっぱいいっぱいのとき、
出来の悪いものを観たときに、
看過できずに、噛み付いてしまう。

霧に映った自分の影におびえる。

では、出来の悪いコラムに
おもしろい観点で応答してくる読者は? と考えて、
「余裕」があるからだ、
と気づいて、はっ、とした。

これは、もしかして、松の読解力を持つ読者たちの、
「結論の再生」ではないか?

私はLesson303は、ぎりぎりまで粘ったけれど、
時間切れとなり、
どうにも浮上させることができず……と言った。
自分でも納得ラインまで
言いたいことが言いきれていない。
いわば、核心部が欠落した文章のようなものだ。

煮え切らないものをみたときに、
そこで、
「いらっ」とか、「もやっ」とする人もいるだろう。
煮え切らないものを責めたり、
もやもやの原因を相手に問いつめたりする人も、
中にはいるかもしれない。

でも、そのときに、

心の余裕というか、
読解の体力に余裕がある人は、
そこを楽しんでしまう。
「どうも煮え切らない文章だな、
 筆者がほんとうに言いたかったことは、
 要するに、こういうことかしら……」
と、無意識に、もう、筆者に変わって考えはじめていて、
欠落した核心部分を、自分の頭で、再生しはじめる。

そして、筆者が
出口まで浮上させることのできなかったコラムを、
読む側の体力で浮上しきるところまでもっていって、
さらに、浮上した出口に対して自分の考えを述べる。

欠落部分が大きければおおきいほど、
読者の読み取る体力は試され、
オリジナリティーは発揮される。
結果、十人十色の見方がでてくる。

だから出来の悪いコラムにいいメールが寄せられる。

まだ仮説だけれど、そう想ったとき、
なんとも言えない、感動が走った。

もっとも体力を払う形が、もっとも優しい。

充分に言いたいことが言い切れない人にたいし、
私自身、いらいらしたり、
それをぶつけたようなこともあった。

でも、がまんしてじっと聞く、のではなくて。

一歩進んで、
この人が、ほんとうに
いわんとしているのはどういうことかしら、
と、そこを汲み取ったり、復元・再生していくことを
ちょっと楽しんでしまえる心の余裕を持ちたい。

その上で、
「あなたが言おうとしていることは、
ほんとうは、こういうことですか」
と要約して、相手に返すのではなく、

相手のいわんとすることは自分の中で静かに汲み取って、
その上で、自分に求められている発言のパートを、
誠実に、せいいっぱい返していく、

そういうコミュニケーションがしたいと私は思う。

それを、身をもって教えてくれた読者に、
心から敬意と感謝を伝えたい。

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『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
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『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2006-06-21-WED
YAMADA
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