YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 302 表現と反応は相似形


少し前、自分のクリエイティブが弱って、
思うものが書けなくて、へこんでいたときがある。

そういうときに限って、いやなメールが来る。

圧倒的に、いいメール、いい読者の方が多いのだけど、
1通の嫌なメールに気をとられてしまう。

どうしてか自分が強いとき、嫌なメールはこない。
弱っているときにくる。

弱い人というのは、
独特の嗅覚で、
自分より弱っている人を嗅ぎつけるんだろうか?

嫌なメールというのは、
何も生まない、ただ嫌な気分にさせられるだけだ。
そのくせ、なかなか心の中から出て行かない。
こびりついて、何度も何度も、むかむかする。

こういうメールに返信をしてはいけない。

これはネットでの執筆、
6年間で学んだことだ。

相手に対する自分の気持ちがネガティブだからだ。

ネガティブを動機に書いた文章が、
相手を利することは決してない。

それでも、私は返信を考えてしまう。

出すことのできない、
出さないと決めた返信を、
それでも、「それは違うだろう」と、
心の中に、ふつふつと反論の言葉を
わかせずには、おられない。

先日も、そんな感じで、ごくわずかな嫌なメールのことを
繰り返し、繰り返し、考えていた。

そのとき、気になってしょうがなかったのが、
「くれ、くれ」というメールだった。

この「おとなの小論文教室。」にくるメールは、
深い迷いを抱えている人も、
私に「なんとかしてくれ」ということは、
ほとんどない。

「自分でここまでは考えた。」
「ここまではわかった。」
「ここが、わからない。」

と、自分の経験から、ぎりぎり
つかみ取った、視点なり、発見なりを、
提供しようと書いてくる。

本人が、悩みに悩み、迷いに迷って、
書いてきたメールでも、
痛みをも、たたき台として
提供しようという姿勢が見える。
それが、また、いい問題提起になっていて、
また、新しいテーマにつながったりする。

「与えよう、シェアしよう」
という無意識の自立を秘めたメールがほとんどなのだ。

ところが、その時期なぜか、
一方的に「くれ、くれ」と言うメールが気になった。
しかも、個人的なところで、
湿度のある依存を感じるような。

「なんでなんだろうな」と私は思っていた。

もうひとつ、気になったのは、
たった一回でも、いつもと違った感じのコラムを書くと、
すぐさま、クレームをつけてくるメールだ。

常に常に常に、
自分の得意の土俵、得意のやり方で書いていれば、
未来に自分の守備範囲は、やせ細る。

冒険や挑戦をしていかないと自分の枠組みは広がらない。

挑戦の1回が、
いつもより質の低下をまねくことがあっても、
それが、思わぬ未来への布石となることもある。

「もう少し、広く長い目で見てくれないかな」
と私は、思った。

そんなふうに、引っかかるメールについて、
自分の中だけで反論を巡らせていると、
自分の中だけで、一方的に「もっともだ、もっともだ」
という気持ちがもりあがってくる。

書けはしないのに、
ほんとに反論を書いて出そうか、とまで思いつめた瞬間、

「待てよ!」と思った。

少なくとも、
そういうメールが1通も来ない時期は、あったはずだ。

いや、そんな時期の方が多い。
それどころか、読者から、切実な問題提起があって、
それがテーマになり、
それをまた、別の読者が経験から発展させ、
みんな、迷ったり、悩んだりしながらも、
自分の視点を出しあい、嫌なメールを寄せ付けず、
考えることで、
すごくいいスパイラルに
入っていったことも何度もあった。

なのに、なぜ? ここへきて、
「くれ、くれ」のメールが目立つのだろうか?
ふと、

「表現と反応は相似形。」

という言葉が浮かんだ。
人は自分の表現したものに、
よく似た形の反応を受け取る。

だとすると、
「くれ、くれ」のメールを引き寄せているのは自分?

そう思ってぞっとした。
認めたくはなかった。
だが、いったん、そういう視野に立って、
自分の表現を振り返ってみると、
「ああ…、」と思い当たる節があった。

読み手が「テーマの方を見て・考える」ことに集中せず、
私の方を見て、くれくれと依存的になるときには、

わたしの方も、どこかで、
テーマを考えることに集中しきれておらず、
読み手の方を見て、認めてくれ、わかってくれ、
というような甘えた根性を持っている。

つまりは、こうだ。

好調のときには嫌なメールはこず、
不調のときにくると、私は言った。

不調のときにはクリエイティブが下がっているから
いいものが書けない。
それがつづくとへこむ。

それで、今度こそいいものを書いて
このスランプを脱却するぞ、というような邪念がはいる。

それは邪念なのだ。

私が不調を脱却するというのは、
テーマを考える上でも、
読者にとっても、どうでもいいことだからだ。

そうして書かれた文章には、
「どうですか、この文章、
 うまく書けていますでしょうか?」
みたいな、

テーマについて純粋に奉仕するのでなく、
「これを書いた自分を力を見てくれ」
「評価してくれ」
というような、
かっこわるい気持ちが無意識にまざってしまう。

邪念が混じるのは人間味でもあり、
いちがいに悪いとは言えない、
それも認めなきゃいけない、でも、

邪念には邪念が、
依存には依存が、
やっぱり、表現の反応として相似形に返ってくる。

同様に、一度の挑戦にびびり、
自分を広く長い目で見る余裕がなかったのは
自分ではなかったか。
いままで、
本当に腹を決めてやった挑戦には
嫌なメールはこなかった。

たいした努力もせず、たいした覚悟もなく、
くれくれ言ってたのは、自分の方だったかもしれない。

真摯な表現には、真摯な反応が、
切実な表現には、切実な反応が、返ってくると、

これもやっぱり、即日多数の反応がある
ネットに書きつづけて、強く、信じられることだ。

面白い反応、それも相似形と思うと勇気が湧く。

今回はそう信じて原稿に集中したら、
たしかに、流れが変わったように思う。

「表現と反応は相似形。」

反応に違和感があるとき、
そこに意義をとなえるのでなく、
自らの表現を磨き、
自らが渦となって、
欲しい反応を引き寄せていけるような、
そんな行き方をしようと、私は想う。

今日、自分に返ってきた反応は、
どこかで、自分の表現に似てないだろうか?

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『17歳は2回くる―おとなの小論文教室。III』
(河出書房新社)



『理解という名の愛が欲しいーおとなの小論文教室。II』
河出書房新社




『おとなの小論文教室。』河出書房新社


『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2006-05-31-WED
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