YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson233 生きる実感

若い人と話していると、「実感がうすい」とうったえる。

「本能が弱っていく感じ」
「なにか言っても反応がうすい」
「やりたいことがみつからない」

そして言う、「生きる実感」がほしいと。

いま、生きる意味がみつからないからと、
自分から、ひどく危険な地域に行ったり、
からだを傷つけたり、
「死」と距離を縮めてみて、
そこではねかえってくる分で、
「生きる実感」を確かめようとする若い人もいる。

そういう若い人の痛みは、どこか外のものでなく
自分の内側で響くところがある。

私も、虚無感みたいなものに、
追いつかれてつかまるのが一番恐いのかもしれない。

そういうと、
「なんでズーニーさんが、虚無感に襲われるんだ?
 やりたい仕事をしているからいいではないか?
 自分は、まだ何もみつかっていない、なにもない」
と若い人に言われるかもしれない。

でもそうだろうか? どっちが深いだろう?

まだ、なにもみつかってないから感じる虚無感と。
がんばって何かをみつけても、
逃れられないと知る、虚無感と。

でも、はて、「生きる実感」ってなんだろう?

正面きって考えると、
これがなかなかわからないのだ。

若い人が言っている、
「生きる実感」って、どういうことだろう?

私自身、実感がうすいと感じるときに、
そこから脱出しようとして、もがき、
求めているのはいったい何だろう?

たとえば、独立してからのこの5年、私の
「生きる実感」をたどってみる。

きっと、人が期待する答えは、「歓びの瞬間」だと思う。

たとえば、生まれて初めての本を書きあげて、
達成感に満ち、読者と通じ合う瞬間とか。

講演で、何百人、ときには千人の人と、
通じ合えた瞬間とか。

それは、ほんとうに素晴らしい。
でも、歓びはほんの一瞬で、
無我夢中、
自分でもどこか信じられないと思っているうちに、
あっという間に過ぎてしまう。

「実感」といったら、それよりも、

講演だったら、あんなに大勢の人と一緒にいたのに、
一人電車に乗って帰る道のりとか、
家に帰って一人でごはんを食べているときとか。

本だったら、執筆期間の孤独にたえきれなくて、
でも、人に会う時間はなくて、
ときどき、自転車で駅に人を見に行った時間とかの方が、
からだの印象としては、リアルに残っている。

「歓びの瞬間」は、あっという間だけれど、
そこまでの、
長い、長い、長い、準備期間のほうがリアルだ。

「自分が書いているものは意味があるのか」と
不安に襲われては、打ち消し、
また不安につかまえられて、
自分の存在までだんだん無意味になってきて、落ち込み、
そこから立ち直り、お茶を入れ、
また、パソコンに向かい、と、
だれも知らない、地味で単調な日々の繰り返しの方が、
何しろ圧倒的に長い分、からだの実感としては、鮮やかだ。

でも、「からだの実感」と言えば、
それよりも、何よりも、
会社を辞めてから、
フリーランスの方向性が立ち上がるまでの
何もしていない期間がいちばん鮮やかだ。

自分にからだがあることを、
こんなに生々しく実感したことはない。

朝起きて、「今日何をしよう?」と思う。

当然する仕事も、しなきゃいけない仕事も、
私を待っている人もいない。
自分の存在の無意味感に、ひしがれそうになる。

なにかしなきゃ、と思う。
昨日まで朝から晩まで働いていたからだの習慣性が
自分をかりたてる。

あてがないのに、ふるいたたせて外に出る。
それでも、身支度をして出かける瞬間だけは、
なにかに出会えるのではないかという淡い期待がよぎる。

しかし、これだというものには出会えない。

あたり前の話で、目にするものを、
昨日まで会社で16年かかって築き上げたものと、
ことごとく比べているからだ。

長年、てしおにかけたものよりも、
やりがいあることなんて、
すぐ見つかるはずもない。

向かう気が起きず、それでも何かに向かおうとすれば、
逆にやる気が奪われ、しぼんでいく。
行くところも、気力もなくなり、
まだ日が高いのに、くたくたになって、
のがれるように、来た道をそのまま帰る。

まだ昔の同僚たちが、バリバリ働いているだろう時間、
家に向かう道の空虚さといったらなかった。
一歩に力をこめないと、崩れそうだった。

家に帰るのが恐かった。
いやでも自分と向き合わなくてはいけない。
のがれるためにテレビをつける、
みているうちに眠ってしまう、
夕闇の中で目が覚める。

また、次の朝、おなじことを繰り返す。
家にいられない、出てもいくところがない。

たかだか50kgに満たないこのからだ、
たった今日一日の置き場がない。
自分の存在意味の軽さにつぶされそうだった。

でも、このころのことを思い出すと、
ほんとうに、からだの感覚がリアルだ。

かえって、会社で編集をしていた自分とか、
いま、フリーランスとして取材を受けたりしている
自分の方が、バーチャルではないかと思えるほど、
このときの自分は生々しい。

行くところも、存在意味も、やりたいことも、
なにもなかった自分に、
今の自分は、かなわない、と思うことがよくある。

いまは、仕事も次々くるようになり、
次の方向も見えてきた。やりがいのある仕事に出会い、
実績もそれなりについてくれば、
もう無意味感に襲われることはないかと思ったら甘かった。

無意味感は、
日常のおもわぬところで口をあけてまっている。
やりがいのあることがやれた、と強く思ったあとほど、
出くわす無意味感は大きく、
足をからめとられ、飲み込まれそうになる。
たぶん、一生、こんなことをくりかえすのかもしれない。

先日も、そんなことがあり、
腐って、テレビを見ながら眠ってしまい、
ふと、郵便配達のバイクの音で目がさめた。
起きて、自分は会社を辞めたころ、何度もこうして
バイク音と虚無感の中、目覚めていたなと思った。
あいかわらずだな自分は、と思いながら、

あのころと同じように階下のポストに
郵便を取りにいきながら、ふと、思った。

まてよ、これこそが生きる実感ではないか?

若い人に伝えなくてはいけないのは、
体中が熱く、気持ちが昂揚する
「歓びの一瞬」のことではなく、
自分の無意味感からのがれつつ、空気圧にじっと耐えて
昨日と同じ今日を、また、同じ凡庸な朝を生きる覚悟、
それをうんざりしても、
毎日繰り返し続けていることこそが、
「生きる実感」である、ということなのではないだろうか?

でも、こっちこそが、生きる実感なのだとしたら、
若い人が探し求めている方の、
「生きる実感」ってなんだろう?

あれは、歌でいうところの「サビ」の部分ではないか?
それより圧倒的に長い、押さえた部分があるからこそ
ほんの一瞬だけ、光り輝く、盛り上がりの部分。

「生きる実感」がほしいというとき、もしかして、
「サビがほしい」と言っているのかもしれない。

でも、サビは、サビの部分だけつかもうとして、
つかめたら、実感はうすい、もはやサビではなくなる。

もっとも虚無が押し寄せ、
なんにも起きない日常におしつぶされそうになっていた、
あの時間こそ、もっとも自分は生きていたと思う。
あれが、命を燃やすということではなかったろうか?

あなたにとって「生きる実感」とは何だろう?




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2005-02-02-WED
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