YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson232 続・「おわび」の時間

編集者である後輩が、作家におわびに行った。

後輩は、とうとうと懺悔というか、自分の釈明をしている。
作家は、だまりこくっている。

後輩は、自分の言うことだけ言ったら帰ってきてしまった。
とっさに私は思った。

「なんで、おわびする方が一方的にしゃべってるんだ。
 もっと、相手にしゃべらせなきゃだめだ」と。

おわびに行ったら、
相手に、気の済むまでしゃべらせなければだめ、

もっと相手に、問いかけて、
吐き出してもらって、言葉にならない感情なら、
感情のままぶつけてもらって、
それ全部、受けとめて帰ってこなきゃ、と私は思う。

先週このコラムを読んだ、読者の森さんは言う。

>>キャリアカウンセリングの勉強をしている中で、
傾聴=ヒトの話しを最後まで聴く。ヒトにしゃべらせる。
ことの絶大な効果を知りました。
      (読者  森 智貴さんからのメール)


おわび、とくに仕事の場合、
こちらが言わなきゃならないことは、限られている。

自分の責任・非はどこにあるか? (罪の認識)

相手に謝ること。(謝罪)

なぜ、こういうことが起きたか? (原因究明)

二度としないために何をどう変えるか? (対策)

相手に与えたダメージにどう償うか? (償い)

肝心なのは、
自分が言いたいことをしゃべるんじゃなくて、
「相手が関心ある問い」にきちんと答えていくことだ。

でも、上にあげた5つよりも、まず先に、
採りあげるべき問いは、これではないだろうか。

相手はどんな気持ちだったか? (相手理解)

冒頭の後輩と作家の一件でも、
迷惑をかけられた作家の方に、
なにか言いたいことは、なかったろうか?

迷惑をかけられた相手は、
何より、気持ちにダメージを受けている。

たいていは、その気持ちを言ってみたところで、
もうどうにもならない。
もうどうにもならないと思っているから、
黙っている相手が多いのだけれど。

相手がこっちのおわびを黙って聞いてくれて、
ただ波風立たず、表面上、穏便に済んだおわびが、
いいとは限らない。

言葉化されなかった想いが、相手の中に残る。

同じ「迷惑をかけられた、つらかった」といっても、
人によって、その感じ方はさまざまだ。
色や味、手ざわりが違う。

その想いの色が表現できないままだと、
相手の中に、それがたまって負担になったり、
いつかなにか別の行動になって表れたりしないだろうか。

そこまでいかなくても、
相手は、自分の想いを言葉にし、
声に出してしゃべり、
傾聴してもらうことで、
ずいぶんラクになれるのではないか?

読者の青柳さんは言う。

>>誰かの失敗で周りが迷惑を受けた場合、
その後の物語の主人公(あるいは作者)は、
失敗した人間よりも、むしろ周りの人間であるべきだ、

失敗した人の都合なんて周りには相手にしてもらえない。

おわびの際の「利他」というのは、
物語の中心に相手を据えるということであり、

逆に「利己」と言うのは、
自分が脚本監督主演のワンマンショーを押し付けること
        (読者 青柳大介さんからのメール)


最近、よくみかける「自虐おわび」、
必要以上に、「私が…、私が…」と自分を責め、懺悔し、
泣く、落ち込む、周囲をふりまわす、
というようなおわびは、
その人のワンマンショーになってしまっている。

青柳さんは、さらに言う。

>>失敗した側の物語が尊重してもらえるのは、
おそらく母子関係が典型であり、
それはそれで良いことなのだと思います。

たとえば聞き上手のおばあちゃんが
名脇役に徹してくれる時。

しかし、男性的(?)な一般社会の論理では
それは通用しない。
実際、ミスする度に自分探しされても、
仕事は進みませんから。
    (読者 青柳大介さんからのメール)


本来、「ママ」に聞いてもらうべきことを、カン違いして、
おわび相手に聞かせてしまっている人が多いということか。
「自虐おわび」について、読者の鹿野さんは言う。

>>岸田秀さんが「自己嫌悪」の心理について
書いた文章を読み、ショックを受けたことがありました。

「私は卑劣な人間だ」と
自己嫌悪している人がいたとします。

これって、自分の行為を反省しているように
見えるんだけれども、
岸田さんは、実はそうじゃないと言うんです。

自分でも気づかないうちに、心の中で、
「卑劣な行為をした自分」と
「そのことを理解し嫌悪している自分」というふうに、
自分のことを2つにわけている。

そして、卑劣さを自分の中の片割れだけに押しつけて、
もう片方の、卑劣さを理解し嫌悪している自分は、
少なくとも卑劣ではないと考える。

卑劣な行為に及んだのは、まぎれもない自分自身なのに、
自分がやったことを、まるでどこかの他人に
なすりつけるようにして、
「卑劣でない自分」を確保しようとする。

だから、この人はなんどでも同じやり方で
卑劣な行為に及び、なんどでも自己嫌悪に陥るだろう。

「自虐おわび」と
ちょっと似たところがあるなと思ったんです。

先週のコラムに登場した、ズーニーさんの先輩は、
罪悪感を抱えたまま、安易に自分を2つに分けず、
まずは、表現をこらえたんでしょうね。

これは、思いやりとか誠実さはもちろん、
何よりも強さが要求される行いです。

「おわびの時間」に身を置くときには、
他者の静けさに耳をすます
こちらの強さも大事なんだろうなと思いました。
     (読者 鹿野青介さんからのメール)


「自虐おわび」のように、
自分を「裁く」人は、他人も裁く、
裁いて「責める」人は、自分も他人もやっぱり責める。

しかし、
「裁く、責める」ではことは解決しないから悩むのだ。
そもそも、自分にそれが「裁ける」のか?
判断を誤ったからこそ、
こうして今、おわびをしている自分に…。

読者とのこんなやりとりをみていた、
このコラムの編集者、木村さんが、ふと、こう言った。

>>おわびをされる側は、
返事はひとつ「ゆるす」しか言えなくて、
そこに違和感というか、
まるでボランティアを強制されてしまうような
居心地の悪さを感じるのかなぁ。
         (木村俊介さんからのメール)


返事は一つ「許す」しかない。
これは、とても囲い込まれたコミュニケーションだ。
強制、ゆき過ぎれば、暴力になる。

「おわび」という暴力。
人は、多様な答え、多様な表現を許されないとき、
不快を感じるのだろうなあ。

もう一度、「おわびの時間の主人公はだれか?」
と問うてみる。

その人は、たった一つの答えを強制されていないか?

その人は、自分の想いを
表現できないままにされていないか?

その人は、いつのまにか
ワキ役・聞き役の「ママ」にされてないだろうか?

相手を本当に自由にしてあげるためには、
より自由な表現、選択、答えができるようにするためには、

自分に、なにができるだろうか?
単に、裁く・責めるでない、
自分にどんな力が必要だろうか?




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2005-01-26-WED
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