糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

01月15日の「今日のダーリン」

・東京オペラシティでの『谷川俊太郎』がはじまった。詩人の展覧会というものを、どうつくればいいのか。ぼくもうんうんと考えてしまうけれど、谷川さんご本人も、どうするのかを想像したと思う。しかし、「できるような気がする」と思ったのだろう。だって、実際にやることにして、はじまったのだから。 谷川俊太郎さんが、詩人の展覧会というものについて、「できるような気がする」と思えたところが、もうすでに谷川俊太郎らしいというふうに、ぼくには思える。

詩人であることや、展覧会であることについて、こうでなきゃああでなきゃということが山ほどあったら、いままでもそうだったように、詩人の展覧会は「やっぱりやらないことに」なったろう。しかし、「できるような気がする」と思えたのは、この詩人の展覧会については、詩人でない人たちが意欲をもって手伝ってくれる、ということを信じられたからだと思う。

会場構成を五十嵐瑠衣、会場グラフィックを大島依堤亜、映像を中村勇吾、音楽が小山田圭吾という人たちが、谷川俊太郎という詩人と作品と、環境、そして人生に、興味と敬意を持って料理してくれる。当の詩人である谷川俊太郎さんは、「豊かな材料」になって迎え入れるというわけだ。「ひとりの詩人のまるごと」を、どう展覧会にするか。詩人が「できるような気がする」と思いさえすれば、これは、必ずできるものになる‥‥と、ぼくさえも思う。

展示のある会場に入ってすぐに目に入るのが、谷川俊太郎さんの実寸の写真と、「自己紹介」という詩のパネルである。

「私は背の低い禿頭の老人です」という一行目は、この詩人の前にいる相手に見えているものだ。まさしくこれも、受け身そのものの一行なのである。「あなたに見えているものによって詩がはじまる」会場の入口で、もう、ぼくらは詩人と入れ替わる。谷川俊太郎として、ぼくらはそこから歩きだす。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。こんな展覧会が成立する「ことばの人」、なかなかいない。