ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

ツイッターの初心。

ツイッターというものをはじめて、
だいたい2週間が過ぎた。

赤ん坊がひとり生まれたようなもので、
それ相応の忙しい感じにはなる。
授乳やらおむつの取り換えをするわけじゃないけれど、
とにかく目をやっていることが必要なので、
そうそうはラクなもんじゃない。

目をやっているということは、
つまり「生きているか死んでいるか」を見張ってることだ。
ぼくは金魚やら小鳥やらを飼って、
無責任に死なせてしまった経験がある。
元気で生きていると決めつけて、
目をやってない時間が長くなると、生きものは死ぬ。
そりゃ、あらゆるものごとが、そういうものだ。

目をやってない時間が長くなると、(  )は死ぬ。

(  )のなかに、どんなことばでも入れたらいい。
愛情でも、組織でも、団結力でも、お菓子でも、
ホームページでもブログでもツイッターでも‥‥だ。

ぼくは、ツイッターを生んでしまったのだから、
なにかの理由でやめるまでは、
とにかく目をやっていることにしているわけだ。
生きているようにしなきゃいけない。
そうすると、じぶんのツイッターが生きるために
なにが必要なのかなんてことも、考えることになる。

栄養がいるんだな、いのちだからね。
その栄養ってものは、「ことば」なんだね。
そう思った。
で、「ことば」をたやさないようにした。
「花に水、妻に愛。」のたとえもあるさ。
ツイッターには「ことば」だ。

ただ、「ことば」にしてもいろいろあるわけで。
「わたしは、いま学校へ行く」ということばもあるし、
「汝自身を知れ」もあるわけだし、
「りんごの気持ちが、いま、わかった」だってある。

「わたしは、いま学校へ行く」については、
その「わたし」がめずらしい人である場合は、
ニュースになる。
また、そこで語られる学校というのが特別だったりすると、
これまたニュースになる。
しかし、「わたし」も「学校」もめずらしくない場合は、
人が読む理由はとても薄くなってしまう。
「見ず知らずの人が、なにかをしている」というのは、
本人やその友だちにはなんらかの意味があっても、
他の人が読みたいとは思いにくいだろう。

ぼくとしては、ほんの少しでもいいので、
「いまここに書かれている」ことが、
誰かしらとコミュニケーションするタネになるようにと、
そういう場にしようと思った。
微小なアイディアでもいいし、
見えるか見えないか、チリほどの感動でもいいし、
いま感じたばかりの新鮮な感想でもいい。
「読んでなにを思うこともできない」ことは、
やめておこうと思ったのだった、ぼくはね。
そうしないと、わざわざやる気にはならないから。
(だいたい、手帳にだって
 「なにか」があることを書くだろ?)

「つぶやき」という言い方を、
避けたのはそういう理由が大きかった。
「つぶやき」には、「ひとりごと」の意味がある。
「ひとりごと」は、ひとりで完結してしまうので、
コミュニケーションの相手を探さなくてもいい。
ツイッターが、「つぶやき」なんだと思ったら、
「学校行こうかな」でも「さて‥‥トイレに」でもいい。
もちろん、なにがいいとか悪いとかもないわけだが、
みんなが本気で「ひとりごと」を言い合ってる場所に、
ぼくは立つ気になれなかった。

少なくとも、じぶんの「あたま」なり「こころ」なりを、
いったん経過した「ことば」を使うようにしようと思った。
しかし、作品を生み出すとか、仕事をつくり出すような、
重さとか用意とかは、別のメディアですればいい。

作品が「うんこ」という比喩で語れるなら、
ツイッターでぼくがひりだす「ことば」は、
「かたちになるかならないかわからないうんこ」だから、
「おなら」のようなものだろうと思った。
他人に多少の迷惑をかけたり、
「くせぇな」とばかりに、
匂いのコミュニケーションを引き起こすという意味でも、
この比喩でいこう、と。

それに、「おなら」の喩えは、
「たいしたことないもの」にぴったりだ。
「声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような」
ぼくのツイッターのコンセプトは決まった。

じぶんの性質のなかにあるしょうもない幼児性のせいで、
とにかく「おならぷー」を言いまくった。
どんなことを言おうが、「ぷーぷー」付け加えると、
「たいしたことないもの」の目印になる。
また、ぼくは
「つぶやき=ひとりごと」を言うつもりはないんだ、
ということをいちいち説明しなくてすんだのではないか。
あいつは「つぶやき」じゃなくて
「おならぷー」なんだなとわかってもらえるように思った。

ぼくとしては、本名で「おならぷー」をしているので、
「ほぼ日」でいろいろ書くときよりも、
自由にやるつもりだった。
ちゃんと言えるようになってから言うのでなく、
それこそ、ぷーっと出ちゃった「ことば」を、
そのまま送信しましょうと考えた。
そのためにも、最初に「自己紹介」のスペースを利用して、
以下のようなことを記した。

~こんな姿勢でやっていこうと思います。 <みんななかよく5つのやくそく> 1 とげとげしいことばは、なしよ。 2 だれがただしかろうが、なにがただしかろうが、ただしくないことも、ありよ。 3 やすみたいとき、やすむのありよ。 4 だまっていたいときに、だまっているの、ありよ。 5 be たのしくね。~

「みんななかよく5つのやくそく」ということばの、
いちばん重要な部分は「なかよく」だ。
「みんな」も「5つ」も「やくそく」も大事だけれど、
なによりも大事なことは「なかよく」だ。
「なかよく」していれば、ここに集う気にもなる。

「5つのやくそく」と言ってるのに、
4つしかないですということを言う人がいた。
「ただしくないことも、ありよ」だからではなく、
ちゃんと「5 be たのしくね」と言ってるではないか。
これも、やくそくなのだ。
たのしい状態であれ(be)ということだ。

ここまでが、はじめる前に思っていたこと。

そして、はじめてからわかったことひとつがある。
「おまえはだれだ?」の答えが、
いちおう見えるということだ。
たとえば、いやな例だけれど、
じぶんの「ツイート」に、
ずいぶん失礼な「ことば」が投げられたとする。

「ばーか。おまえなんか死んでしまえ!」
ま、こんな単純な悪意もそうはないけれどね。
これを読まされたら、
その発言者のホームに行ってみることがすぐにできる。
それがどこのだれなのかわからなくても、
これまでに、どういう発言をしてきたのかの記録が読める。

彼の友人と待ち合わせしているツイート、
他の人に毒づいているツイート、
夜中に落ち込んでいるツイート‥‥。
名前も住所もわからないけれど、
彼がどういうことをまさしく「つぶやいてきた」のかは、
ある程度みえてくるわけだ。
どんなふうな人間が、どういう風の吹き回しかで
「死んでしまえ!」と言ったのだと知ると、
言われたことの腹立たしさが、すうっと薄まる。

暗闇から石を投げたり、刃物を突き出したりする者が、
人間であり、それはそれで生活がある
ということを知れるのは、
ほんとうにありがたいしくみだと思う。
これは、投げられた本人ばかりでなく、
石が投げられたのを横で見ていた人が、
その石を投げる者の素性を知れるということで、
ある程度、冷静な判断がしやすくなるということでもある。

ツイッターというもののしくみは、
参加している人たちの
「環境」どうしをつなげるものらしい。
孤独な「見えない人間」のままではいられないしくみが、
ぼくには、とても新しく感じられる。

あとは‥‥中毒問題かなぁ。
目の前に人がいなくても、
「おならぷー」をしたり、嗅ぎ合ったりしているのは、
くせになるからなぁ。
たぶん、ツイッターを、ノートによくあるような
「自由帳」として使って、
そこに書いたことをタネにして、
広くだったり、深くだったり、おもしろくだったりに、
発展させていくのが、ぼくの使い方になるのかなぁ。

とにかく、まだしばらくは、
おなら大魔王として、ツイッターに
ちゃんと「目をやっている」ことと思う。
つまり、「ことば」という栄養をあたえ続けるだろう。
むろん、ただの「おならぷー」なんだけど。
いやぁ、まだ初心者の初心だからね。
なんにもわかっちゃいないのかもしれない。
でも、あとあとじぶんで考える材料にもなるだろうし、
こんな幼稚な感想などを書き留めておきます。

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