ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

学校では教えてくれない。

言い訳から記しておく。
前々から書いてみたかったのだけれど、
どうもうまく言えなかったことを、
ためしに書いてみる。
でも、やっぱり、うまく伝えられるようには言えない。
そういうことが、書き終えてからわかった。
このあたりのことは、しゃべりで言ったほうが、
ずっとわかりやすいんだよなぁ。
いつか、対談の機会にでも、また同じことをしゃべるよ。

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古今亭志ん朝さんは、落語のなかで、
さんざん吉原のような遊里のことを説明したあげくに、
「これは、親父に教わったんですけどね」と
半笑いで付け加える。
で、その親父である志ん生さんのほうは、
同じようなことをとうとうと話して、
うれしそうに
「こういうことは学校じゃ教えてくれない」
と言うんだな。

知らなきゃいけないことではないけれど、
たしかに「学校では教えてくれない」ものだ。
学校で教えないことにも、
いいことわるいこと、簡単なこと難しいこと、
いろいろあるのだけれど、
「わるいこと」「ろくでもないこと」については、
落語がほんとによく教えてくれる。

立川談志さんは、落語のことを
「人間の業の肯定である」と定義したけれど、
これは、まことによくできていると思う。

落語が生まれた当時や、
昭和のある時期までのモラルでは、
たとえば、遊里というのはあって当たり前の場所だった。
「遊ぶ」ということばには、
色事にまつわる意味がたっぷりくっついていた。

ただ、道徳や倫理というものは変化していくもので、
いまは、あってはいけない場所になっている。
あってはいけない場所で、
あってならないことが行われていることは、
あってはいけないことだ。
これが健全な常識というものであり、
健康な倫理観である。

有権者から選挙で選ばれた国会議員でなくても、
企業や組織の責任者でなくても、
あらゆる人間が、そういう場所や、
そういう行為に近寄らぬようにするべきである。
ということになっている。
だから、そのモラルを破るものは責められ罰せられる。
だから、「あらゆる普通の人」は、
公式には聖人君子のように生きている
‥‥ことになっている。

つまり、みんなが、みんなで、
「口裏を合わせて」ないことにしているような
「いけないこと」があるというわけだ。
信じられない、とか、うそでしょうとか、
「カマボコってオトト?」みたいなことを、
婦女子ばかりでなく、
先生も、編集者も、会社員も学生も、
言い続けている。
志ん生が「学校では教えてくれない」と言った世界には、
誰もが「おれは関係ない」ことになっているのだ。

これを続けていると、
どうなっていくのか、知りゃぁしないけれど、
人間の歴史よりも
「愛しあい信じあう一夫一婦」のほうが長い
というわけじゃないわけで、
なにかが軋んでいるんじゃないかなぁ。

‥‥なんて状況を、
ごしゃごしゃっとかき混ぜて、
空気を入れ替えてくれる役が、「道化」だ。
笑わせる、笑われる役割の芸人たちが、
「しょうもなさ」を実行したり語ったりしていることは、
とても重要なことではないだろうか。

つまり、ほとんどの男たちが、
「おれは関係ないよ」と言っていることを、
代理でしているとも言えるとも言えそうだ。

例えば、さんまさんがテレビで話している私生活は、
ほんとに「しょうもなさ」に満ちているけれど、
それは、さんまさんが特殊な人間なのではなく、
男たちが心の底に沈めてあって
ないことにしている
沈船のような「しょうもなさ」と同じものだ。
笑いの仕事をしている芸人たちが、
「いけない遊び」をしているじぶんたちについて、
小出しに語ったりしているのも、
いかにもくだらないことなのだけれど、
考えようによっては、
たくさんの誰かの代理でやってる仕事だとも言える。

「わるいこと」や「しょうもないこと」を、
いいことだとは言いづらい。
しかし、「わるいこと」「しょうもないこと」が、
血を入れ替えるように捨て去ることができるのかと言えば、
そうはいかないものだろう。
ぼくは芸人さんたちとちがって、
「しょうもないこと」と距離を置いているけれど、
落語を聴いたり、テレビを見て笑ったりしていることで、
なんとなく「しょうもなさ」の応援をしている。

学校では教えてくれないようなことだけに、
ぼくも、やっぱりうまく言えないなぁ。
落語を聴いてください、という結論で終わりにしよう。

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