ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

切れない思いは、ぞうきんだ。

「思い切り橋」という歌を聴いていてさ、
「思い切る」というのは、
「思い」と「切る」のくっついたことばだなぁと、
あらためて知ったんだ。

「切る」だったんだなぁ。
「とどまる」とか、「やめる」なんていう
自然な流れのなかで「思い」をなくしていくんじゃなく、
まったく別の力で、刃物を振り回すようにして「切る」。

そんな経験、ある?
「思い」を「切る」という実感。

いまの人たちって、
「思い」を増やしたり、つきつめたり、
「思い」を試したり、転がしたり、
「思い」と「思い」をぶつけて仲裁してみたり、
とにかく、
「思い」を壊さないように、無にしないように、
大事に大事にあつかっているんだよね。

だから、「思い」を「切る」なんて、
あまりにも理屈抜きに見えて、やりたくないんだろうな。
「切る」って、じぶんがやっていてても、
じぶんがやってるんじゃないようなところがあるもの。

勇気ということを語るときに、
たいてい「思い切って」行けというよね。

投手がコントロールに意識が行き過ぎていて、
投球に力が無くなったときにも、
「思い切り」腕を振れ、と助言するだろ。

「思い切って」ぶつかっていけ、
「思い切り」振ったら当たってました‥‥。
運命を変えるような瞬間には、
たいてい「思い切り」がある。

で、また訊くんだけど。
そんな経験、ある?
「思い」を「切る」という実感。

あんまりないと思うんだよなぁ。
どうしてないかというと、
「思い」は切っちゃいけない
と考えて生きているからじゃないか?
「思い」を切っちゃったら、
「思い」が無くなる瞬間なり、時間ができちゃうでしょ。
それが「いけないこと」だと思ってるんじゃないかなぁ。
おそらく、ぼくは、そういう傾向がある。
「思い」を「切る」なんて、コワイんだ。

でも、実際に、「思い」を思い続けて、
「思い」を足して足して、
「思い」を深く深くしていって、
「思い」を鍛えて、「思い」を管理して、
ほんとうにすばらしい次元に行けるのか?
行けなかったし、行けないんだろうなぁ。
そういう「思い」もあるよ。

思ってないということは、
気を失ってるのと同じ?
そういうふうに、人間を見てるのかもしれない。
逆の言い方をすれば、
「思っているのが、わたしだ」というような。

ここで、はっと思い出す。
犯人はデカルトだ。
「我思う、ゆえに我在り」
っていう考え方だ。
これが、その後の人間をしばっているのかもしれない。
だって、人間は思うためにいるわけじゃないし、
思ってないときだって、人間は人間だからね。

「思い」がすべてだというわけじゃないわけで。
「思い」がなにかの「動き」になったり、
「思い」が他の「思い」と「やりとり」したり、
「思い」と「思い」が組み合ったり、
ひとつの「思い」が踏み台になったり、
するわけで‥‥。
「生きる」と「思う」はイコールじゃないんだから、
時には、「思い」を断ち切ることが必要になる。

ああああ???、これがわからなかったんだよねぇえええ。
(前川清のように歌う)

いま、言おう。
イトイはデカルトに成り代わって言う。

「切れないような思いは、ただの便利なぞうきんだ!」

もうちょっと縮めると、

「切れない思いは、ただのぞうきんだ!」

もっと縮めると、

「切れない思いは、ぞうきんだ!」

じゃ、そういうことで。
ここは、これ以上考えるな!
「切れない思いは、ぞうきんだ!」

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