ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

予測のこと。

赤信号で立ち止まっていて、
目の前のシグナルが緑になる直前に、
すっと歩き出す人がいるだろう。
周囲の、まだ動き出さない人たちが、
「あれ?」と思っている様子を背中で見て、
すすっと横断歩道を渡っていく。

急いでいる人が、急いでいるから
そうするのかと思うのだけれど、
なんども見ていると、
そんなことでもないようだなと気づく。

目の前の赤信号が、
すぐに緑になることを予測して、
彼らは先に歩き出す。
そうなのだ、すぐに緑になるという予測が、
あまりにも当たっているはずなので、
待ってなんかいられないのだ。
待っていても、なんにもないのだから、
予測を信じて先に歩き出す。
そういうことなのかもしれない。

今日も、初老のご婦人が、
予測した緑の信号に合わせて、
犬とぼくが愚直に止まっている場所を後に、
赤い信号の見えるうちに歩き出した。
なるほどなぁ、これは
人間そのものが持っている属性なんだ、きっと。

先日、会社に訪れたうちの犬が、
いつものように乗組員たちに、
ボール投げで遊んでもらっていた。
いつまでも飽きない犬の相手を、
いろんな人たちが代わる代わるにしてくれていた。
「ブイヨン、このごろ先回りするんですよねー」
と、ぐっさんがおもしろそうに言った。

このごろ、と感じたかもしれないけれど、
ブイヨンは、もともとかなり先回りをする犬だ。
ボールが人の手から放れるより前に、
もう勝手に「予測」した方向に走りはじめている。
人が投げてくれるのを待って、
ボールがどっちの方向に飛んでいったかを確かめて、
その瞬間に走り出すのでは、もう遅いらしい。
だから、たまにだけれど、
人が投げたボールが、
ボールを追いかけて走っているはずの
ブイヨンに当たってしまうことさえある。

犬が早合点なのではないだろう。
おそらく、犬は犬で、犬なりに、
「予測」というものを上手に組み入れて、
獲物を追いかけるという腕を磨いてきたのだ。
そうでなかったら、きっと、
犬は狩りの手伝いなんかできなかっただろう。

ぼくらの好きなスポーツでも、
あらゆる場面に「予測」が働いている。
球技などは最たるもので、
投げられたボール、打たれたボールの性質を見きわめ、
その軌道を「予測」して打ったり捕ったりする。
ふつうの「予測」を外すようにして変化球なども発達した。
そしてまた、変化球の軌道も「予測」されることになる。

「予測」が当たったときには、
たぶん脳に快感ホルモンが滴るのではないか。
「予測」がうまく当たったときのよろこびは、
「予測」なしに成功したとき以上にうれしいものだ。
こんなことも、人間の属性として
組み込まれていることなのではないだろうか。

そうやって「予測」という概念を玩具にして、
いろんなことを考えてみると、またおもしろい。

気が利いている人、というのは、
こちらの思考や行動を「予測」して、
ほんの少し「未来」に合わせて対応してくれる人。
そう定義できるかもしれない。

気が合う人というのも、それに似ている。
気が合うということは、たぶん、
考え方や、感じ方が近いので、
相手の態度やことばの「先」をつかまえられるのだ。
つかまえられたほうは、言わなくても、
じぶんの行き先でこころをキャッチしてくれる相手を、
気持ちがいいなぁと思う。

逆に、気の利かない人と思われているときは、
相手を、いつも「現在」でとらえて、
それにじぶんの「現在」で対応しようとしている。
とらえられた「現在」は、もう過去になってしまっている。
せっかく前に進みながらなにかを考えているときに、
「現在」という名前の「過去」に、
引き戻されてしまうのは、誰だってかなわない。
「気が利かないなぁ」であるとか、
「いちいち言われなくてもわかるようにしてくれ」
と言われてしまうことになる。
打者ならば、「あ、現在このコースにボールがある」と
認識してからバットを振るわけだから、
そのスイングの瞬間にはもう、
球はキャッチャーのミットのなかにある。
つまり、空振りだ。

さらに、またまたその裏返しのように、
軌道が見えないのに、「予測」したがる、
未来に対応しようとすることもある。
さっきの、じぶんのからだにボールをぶつけてしまう犬も、
そういう「予測」できてない「予測」のおかげで、
そういう被害をこうむったわけだ。
緑になるに決まっている赤信号にしたって、
はじめて訪れた都市で、「予測」で歩き出すのは、
かなり危険なことになる。

うまくいってる組織や、
順調に進行しているプロジェクトでは、
そのチームの成員たちの「予測」が、
かなり重なっていることが多いだろう。
目標が、方法が、判断が、よろこびや悲しみが、
たがいに「予測」できていたら、
いきいきとした仕事ができるだろうし、
なによりも快感に満ちた時間が過ごせるだろう。
しかし、みんなの「予測」が
あまりにも合い過ぎるというのも、
一気に行き詰まるという可能性があるわけだから、
生きものらしい「ゆらぎ」をつくるためにも、
いつでも「新人」や「異種」が必要なのだろうとも思う。

いまの日本(世界と言ってもいいか)に、
なんともどんよりした閉塞感があるというのは、
これまでの「予測」が、ハズレにハズレてきたからだ。
直球でも変化球でも、ある程度打てるとう打者が、
スイングごとに空振りしているようなものだ。

「現在」を見て、「未来」への軌道が見えてこない。
そういう状況にあるのだと思う。
こういうときには、スポーツのコーチならこう言う。
「じぶんのバッティングをしろ」とか、
「じぶんのやり方を思い出せ」とかね。
「練習は裏切らない」なんてことも言いそうだな。

でもねー、「予測」というものを、
まったくなくして生きていくのは、
かえって不自然で困難なんだよなぁ。
動物の脳には、「予測」は組み込まれているんだからさ。
「予測」がなかったら、テニスも野球もできないよ。

いまみたいな、これまでの「予測」が通用しない時代には、
ぼくの場合は、「まちがってもいい予測」を、
しょっちゅうするようにしている。
リスクの少ない場面で、実験して、結果を考える。
「ありゃまぁ、やっぱりちがったか」なんてことを、
くりかえしやるしかないと思っているのだ。
ちょこちょこちょこちょこ、針で穴を掘るようにね。
「ほぼ日」なんて、そういうことのカタマリです。

でもねー、ここまで書いてて思ったんだけど、
「予測」がまったく当たらなくても、
やってこられた時代もあったはずなんだよなぁ。
目の前の赤信号が、すっかり緑に変わってから
横断歩道を渡り出すというような、
愚直に思われるようなことでも、道は渡れる。
過剰な「速度」のことさえ忘れれば、
まずなんとかなることは多いわけさ。

喩えが、「球技」なんかだと「予測」は必要だけど、
おなじことを「旅」で考えたら、
「予測」はあってもなくてもいいということになるね。
「旅は道連れ、世は情け」なんて、言えちゃうもの。
「ここで会ったのも、なにかの縁」とかね。
これはこれで、脳は快感を感じるんだよなぁ。

関連コンテンツ

今日のおすすめコンテンツ

「ほぼ日刊イトイ新聞」をフォローする