ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

場と場のコミュニケーション。

先日、原丈人さんの開発した「XVD」という
通信装置の発表会に行ってきた。

発表会では、当然のように、
通信による時間差のでない、画像の鮮明な、
費用のかからない「テレビ電話」として紹介された。
たしかに、そうなんだよなぁ。
それで十分に説明になっているとは思うのだけれど、
なんか、この「XVD」という装置、
コミュニケーションの新しいかたちを
つくっていくと思うんだよなぁ。

ハイビジョン画質の情報量が、
あちこちで通信されるというのは、
変えるものがあるよ、絶対。

いま、ぼくが思っているのは、
「場」と「場」をつなぐコミュニケーションが、
もっと「ふつう」になってくるのではないかということだ。

たとえば、電話というコミュニケーション道具は、
Aという個人と、Bという個人をつなぐ。
個と個のコミュニケーションだ。

これが、スピーカーフォンになって、
複数の人たちと、複数の人たちがつながっても、
電話という声のコミュニケーションであるかぎりは、
代わる代わるに、個と複数が話すことになる。

ここに画像の通信が加わって「テレビ電話」になっても、
伝え合うことは、そんなに大層には変わらなかった。
やっぱり、個と個のコミュニケーションだった。
情報の微妙な時間差や、鮮明度に限界があることで、
「電話に顔がついた」くらいの意味しか、
「テレビ電話」は持ってなかったと思えるのだ。

しかし、「XVD」の映像を見ていて思ったのは、
送信側にあるカメラの位置、距離を、
もっと引けるということだった。
これまでの「テレビ電話」だと、
いわば免許証の写真どうしがしゃべっている感じだけれど、
ハイビジョン画質で、ディレイなしに通信できるなら、
10人や20人の人たちのいる会議室まるごとを、
そのまま写しても、全員の表情がわかる。
だとしたら、10人20人、まるごと部屋ごとを
カメラのフレームのなかに入れてしまえばいい。

これによって、「場」が、別の「場」と、
つながれるというわけだ。
誰かがしゃべっているときに、
興味なさそうにしている人間がいたら、
それはそのまま、
しゃべっている人の映像といっしょに伝わる。
その場にいるみんなが、生き生きと、
話し手にシンクロしているようすが写されていたら、
その「場」の総意というものが想像できる。

「個」と「個」でコミュニケーションしているときに、
その「場」にいっしょにいるはずの別「個たち」は、
意図的にも、意図的にでなくても、
自然に隠されてしまう。
しかし、コミュニケーションしている「個」は、
その「場」の意思に、強く影響を受けながら、
情報を発信しているわけだ。
相手側にいて、受信している人たちは、
ほんとうは送信側の「場」を含んだ情報がほしいのだ。

あなたが、もし歌手で舞台に立っているとしたら、
観客席という「場」が伝えてくれる雰囲気を、
まるごと感じ取りながら歌うはずだ。
観客席のひとりだけの情報を、
ひとつだけ切り取ってもらっても、
歌いにくくてしょうがない。
逆に、観客席にいて
舞台という「場」を見ているあなたなら、
舞台の上の歌手だけでなく、舞台全体を見ている。
さらには、観客席の自分以外の人たちも、
「場」として楽しむようにしているはずだ。
これは、「テレビ電話」が出来る
コミュニケーションの範囲ではない。

カメラを引いて、「場」をくっきりと写しだせるだけの
ハイビジョンの画質を持った通信装置なら、
「場」と「場」がつながれると思うのだ。

こうして、文字で「場」と「場」をつなぐ、
などと書くと、これまでにも、
あちこちでそんなことが行われていたように
思うかもしれないけれど、
実は、ぼくらはそんな環境をほとんど経験したことがない。

「場」が「場」とコミュニケーションする。
シチュエーションとシチュエーションがつながる。
「XVD」は、それを実現してくれそうなのだ。
そこでやってみたい実験の心当たりが、
ぼくにはひとつある。
もうちょっとしっかり考えたら、
実行に向けて動いてみようかなと思っている。

「場」が「場」につながるということの、
いままで未体験だったコミュニケーションは、
やがては「ふつう」のことになっていくんだろうなぁ。

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