ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

ぼくらが嫌いになる「わけ」。

おそらく、誰でも。
人を嫌うこともあるし、人に嫌われることもある。
それとおなじように、
人を好くこともあるし、人に好かれることもある。

どうして、その人のことを嫌いなのか。
なかなか簡単に言えるような理由は、見つからない。
じぶんが誰かを嫌いだという場合も、
誰かにじぶんが嫌われているという場合についても、
「なんとなく」以上の理由を見つけるのは、
なかなかむつかしい。
考えてもわからないときには、
だんだん考えないようになってしまう。
もともとが、嫌いな人のことについてなのだから、
そんなに考えてやる必要もない
‥‥そうとも言える。

しかし、嫌いになるにも、
やっぱり、
なにか「わけ」があるのだろうと思うのである。
しかも、じぶんがその人を嫌いだというのだから、
よくよくじぶんに問いかければ、
それなりの「わけ」がわかるのではないだろうか。

おなじようなことは、
好きになった人についても考えてみる。
どうしてその人を好きなのか。
これはこれで、しっかり考えることは、
なかなかむつかしいかもしれない。
好きだから好き、という以上のことを考えると、
好きが不純なもののように思えてくるせいもある。

また、好きの理由などを真剣に考えすぎたりしたら、
理由があんまりきれいでなかったりするときに、
がっかりしてしまうこともあるのではなかろうか。
純粋できれいで永遠だと思っていた「好き」が、
ほんとうにそういうものだとはかぎらないし、
そういうものでなくても、あたりまえではある。
好きが、好きでないに変化することは、
禁じても禁じられないものだ。
人を好きになったり、嫌いになったりするのは、
あまり、人として望ましいことではないような気もする。
好きばかりということは、ありえない。
好きがあれば、嫌いがある。
嫌いがあるから、好きがある。
好きも嫌いも、あまり穏やかなものではない。
好きも嫌いもないのに、気持ちよくつきあえるというのが、
きっと、ほんとうはいちばん上等なのだろう。
そうは考えていても、好きやら嫌いやらが、残る。

好きやら嫌いやらに「わけ」なんかない。
そういって考えをやめるのも、
ひとつのやり方ではあるけれど、
それでは、なにか、惜しすぎる。

この好き嫌い問題については、
メモをとったり、考えの端々をまとめたり、
というようなことはないのだけれど、
たまに、すこしわかったようなことがあると、
それをなるべく憶えておくようにしている。
「こういうことは言えるんじゃないか」ということを、
思い出すままに、記してみよう。

まず、ひとつは、
じぶんの嫌われそうな人を、
先まわりして嫌うということである。
あっちからは好かれないに決まってるから、
こっちも好きじゃないぞ。
好きじゃないと意識しているうちに、嫌いになる。
そういうことは、あるような気がする。
これは、かなり無意識にやってしまうことなのだけれど、
だんだん直っていくもののような気もする。
「あまりに自由にふるまう若い女性」なんかが、
若い男たちに嫌われたりするのも、
そういうことなのではないだろうか。
「小生意気そうなアイドル」なんかが嫌われるときには、
ほとんど、こういうケースだと思う。

また、ひとつは、
嫌う相手である「その人」が力を発揮することによって、
どうやらじぶんの力が減衰するのではないかという場合。
これは、政治の世界であるとか、
対抗的に争っている実業の世界などでは、多いように思う。
あっちが立つと、こっちが立てない。
直接的に、争っていない場合でも、
「ああいうもの」がよいのなら、
「こういうもの」はよくないことにさせられてしまう。
などという場合には、嫌うことになる。
価値観だとか、考え方のちがいすぎる人を前にして、
「ああ、この価値観の世界では、わたしは生きにくい」
と思ったら、無視するか嫌うしかなくなる。

さらに、ひとつは、
じぶんに、よく似た欠点を持っているものを嫌う。
じぶんが持っていた欠点は、いまはないとしても、
ひょっとしたことで戻りかねないものだ。
その怖れがあればあるほど、
似た欠点を持つものを遠ざけようとする。
「ああいうもの」じゃいけないと思ったから、
せっかく、わたしは「こういうもの」になったのに、
あいつがいると「ああいうもの」に戻されちゃう。
そんなふうに感じて嫌うのかもしれない。
親父が息子に腹を立てたりするのも、
こういうことのヴァリエーションかもしれない。
近親憎悪とかいうけれど、
「似ているから不安にさせる」そして、
「嫌う」というのは、よくありそうなパターンではないか。

さらにさらに、もうひとつは、
「あっち」から、すでに攻められたり、
嫌われたりしているというケースだ。
これは、好きにもなりにくいし、
無関心でさえいられないので、嫌いになることになる。
これは、いちばんちゃんとした
嫌う「わけ」のようにも思えるが、
「右の頬をうたれたら、左の頬をさしだせ」
という教えからしたら、
この嫌い方もないほうがいいのだろうな。

ほんとうは、まだあるのだろうけれど、
「嫌いだから嫌い」のもうちょっと先には、
以上のようなパターンが隠れているような気がする。

好き、は、この逆だと思える。

好かれそうな人を、先まわりして好きになる。
微笑みとともにやってくる人が好かれるのは、
そういうことがあるのだろう。
(見損なうということもあるんだろうけれどね)

その人が、力を発揮すると、
じぶんも力を強くできるという場合は、好きになる。
「あちらが立てば、こちらが立つ」なのだから、
それは気持ちがいい。

じぶんの持っている欠点を、
どうやら克服したらしいという人を、好きになる。
あの人も「こういうもの」だったのに、
「ああいうもの」になれたのか、いいな、好きだなと。

そして、好かれたり、親切にされたり
守ってもらえたりすると、好きになる。
皮肉なことを言えば、その好きな相手が、
たとえ悪人であっても、その好きは変らないだろう。

ぼくが、ざっと考えてきた好きと嫌いの法則は、
どうもこんなふうに整理できるような気がする。
はじめて書いてみて、じぶんで「なるほどねー」と思った。

本を読んだりして憶えたことではなく、
じぶんがどうして嫌われるのか、
じぶんがどうして嫌うのか、
「わけ」わからないままでいるのが、
気持ち悪くてしかたがなくて、考えたことばかりだ。

こういうことを考えていたのだ、と知っても、
ぼくのなかに、嫌いや好きの感情は残っている。
まだ考えていない嫌いや好きの
「わけ」がたっぷりあるのだろうとも思う。
これからも、きっと考えるんだろうなぁ。
うれしいことだとも思えないんだけれど‥‥。

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ほんとうは、具体的な名前なんかを例にして、
ぼくが誰それを嫌いな理由、とか書けば、
もっとわかりやすくなるのかもしれないけれど、
そういうことをする人のことを、
ぼくは嫌いなのでしません。
ぼくはぼくで、けっこう
会ったこともない人たちから嫌われて、
それなりに落ち込んだりもしたものなので。
おそらく、そういうことを
「ちょっとやりたい」というじぶんがいるからこそ、
そういう人のことを嫌っているのでしょうね。

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