ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「場」が好き。

野球というものは、
野球場がつくったものなんじゃないかなぁ。
野球場というものが、
野球をやるためのフィールドだけでなく、
それを見るための観客席を持っていることは、
とても重要なことのように思える。

観客席はなくても、野球はできる。
それはまったくそうなんだけれど、
観客席のあるフィールドで、野球をすることは、
野球をしている人たちの、
大きな目的にもなっている。

サッカーにしても、空き地があれば、
いや空き地がなくても道路があったりすれば、
いや道路もなくたって、
ボールさえあればできると言われるかもしれないが、
やっぱり、観客席のあるサッカー場で、
サッカーをやりたいのではないだろうか。

教室の黒板の前で漫才をやることはできる。
学校帰りに歩きながら漫才をしたり、
夜の公園の街路灯の下で漫才することだってできる。
できるかもしれないけれど、
「お笑い」をやりたい人たちも、
観客席のたっぷり用意された劇場でやりたいのではないか。

野球場が、サッカー場が、劇場が、
観客というものを前提とした仕組みとしてできている。

観客なんかが集まったり、増えたり減ったり、
ヤジったり拍手したりするものだから、
スポーツや演劇の純粋なたのしみがだいなしにされた、
という言い方もできるのかもしれないけれど、
そういう意見を認めたうえでも、
やっぱり観客がいる場でのスポーツや演劇には、
観客なしで成立しているそれらに比べて、
ある種の豊かさのようなものがある。

野球場や、サッカー場や、劇場というのは、
「市場(マーケット)」というものと、
同じ意味を持っているのだろうか。
かなり似ているような気もするけれど、
同じじゃないようにも思える。
観客の存在は、金銭そのものに換算しきれない。
ヤジやらブーイングやらも含めて、
観客が与えてくれるものは、
ビジネス以外のなにやらを、たっぷり生み出してくれる。

地方の歌謡ショーなどのチケットの売れ行きが
はかばかしくないときに、無料で配って、
できるだけ会場を満員にするというけれど、
それはそうしたほうが、なにかがうまく運ぶからだ。
「枯れ木も山のにぎわい」という
たいへん失礼なことばがあるけれど、
これは、まことにほんとうのことなのだ。

ぼくは、野球場だとか、劇場だとかが好きだ。
もっと静かな博物館だとか美術館なんかも好きだ。
人が集まって、集まることそのものが、
なにかに影響をあたえていくような「場」が、
どうやらとても好きみたいなのだ。

自由にできる金が山ほどあったら、何をするか。
そういうことを言われても、
なかなか思いつくことはなかったのだけれど、
いちばんほしいのは「場」なのかもしれない。
劇場なのか、広場なのか、野球場なのかは知らない。
さらに、その「場」を、
ちゃんとビジネスとして成立させられるあてもない。
ただの夢みたいなものなのだけれど、
ぼくの欲望が、どっちを向いているのかといえば、
「場」の方向だという気がしている。

かつて、神社の境内にテントを張って
芝居小屋に仕立てた劇団があった。
歩行者天国という場で、
踊ったり演奏したりする集団があった。
郊外の牧場で超特大のロックコンサートもあった。
夏のスキー場は、野外コンサートのメッカになった。
むろん、そこで観られるコンテンツも重要なのだけれど、
それにも増して、その「場」がすごいだろう?

近さや遠さ、便利さや不便さ、有名か無名か、
そういう要素も、無視していいわけじゃないだろうけれど、
「場」がパワーを持つためには、
もっとそれ以上に、大事なことがあると思うんだ。

「場」というものを、大きく広げて考えていくと、
盛り場だとか、都市だとかも、大きな劇場だよな。
それもまた、「市場」というだけでは収まらない、
「場」なんだよなぁ。

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