ITOI
ダーリンコラム

<吉本隆明さんの語った
「10年、毎日続けたらいっちょまえになる」の話
(後編)>

前回のつづき。
吉本隆明さんが「10年、毎日続けたらいっちょまえになる」と、
断言したことに、ああそういう根拠があったのか、と、
ぼくのなかで何かがつながった話が、後編ということになる。

いったん、前の話を忘れていてかまわない。

吉本さんが話すことを、
ちゃんとわかっているのかどうか、
はなはだ心もとないのだけれど、
とにかく、たし算したらかなりの時間、ぼくは聞いていた。
それなりの長い時間、聞いていると、
さまざまな、別々と思われた話題のなかで、
くりかえし出てくる「法則」のようなものがあることがわかる。

たとえば、「比叡山から下りる」という言い方は、よく出てくる。
これは、坊さんたちが修業する最高の場所として、
比叡山というものがあったのだけれど、
それは、その山の上の、
エリートの間だけで通用する考えだったりする。
山を下りて、ほとんどの人間が生きて暮らしている世間で、
その考えがどう通じるのか、そっちが大事だという話だ。
研究者同士、知識人同士の論争や、
大勢のふつうの人たちを甘く見たような姿勢に対して、
「あの人たちは、山から下りられないから」というような表現で、
批判することがよくある。
これはもちろん、吉本さんの好きな中世の思想家「親鸞」のことを
念頭に置いての発言なのだけれど、
とにかく、吉本さんの話のなかに、しょっちゅう出てくる。

もちろん、親鸞の言ったことについては、
まだまだ他にも、大事なのがある。
「人間は、いいことしているときには、
 悪いことをしているくらいの気でいるのが、
ちょうどいいんだよ」
というふうな発言もたびたび出てくるが、
これも親鸞の善悪についての思想を、
吉本さんが消化して語っているものだろう。

他にもあって、
「いつも明るくて楽しくてしょうがねぇやなんていう家庭は、
 どこにもあるわけはないんでさ」
なんていう言い切り方は、
吉本さんの好きな太宰治の『右大臣実朝』の
「暗いうちはまだ滅びない」に通じる気がするけれど、
このあたりについても、もっと奥深く考えていけば、
別のおもしろい何かと遭遇するかもしれない。

さてさて、本題だ。
「人間が、自然に働きかけて、
それを変えちゃうってことは、
 逆の側からも言えるんで、
 人間のほうも、自然の一部分に変えられちゃうんですよ」
と、そういうことを、いろんな話のなかで聞いた。
「これは、とても重要なことでさ」というふうに、
付け足して話されることも、よくあった。
この考えを語るときに、
「マルクスという人の考えたすごいこと」というふうな
注釈がつくこともあった。

この「自然に働きかけて自然を変えることは、
人間が変えられることでもある」という言い方とは別に、
もうずいぶん前に、吉本さんは、
「長年、机に向かって書くという仕事をしてきたら、
たいていの人は、腰を痛めているはずで、
それは職業病だ」
というふうな内容のことも言っていた。

何度も何度も、この自然と人間との、
変えたり変えられたりの関係を聞いていると、
こんな場合は、どうなんだろう、と、
知らず知らずのうちに、それを説明する場面を探そうとしてしまう。
しかし、ついつい、自然というと、
緑の森や山や川をイメージしてしまったりするものだけれど、
その固定的な「自然観」を、いったん壊さなきゃ、
この法則の弾力性のあるおもしろさは、見えてこないものだ。

それでも、その後も、
「人間が、自然に働きかけて、
それを変えちゃうってことは、
 逆の側からも言えるんで、
 人間のほうも、自然の一部分に変えられちゃうんですよ」
を聞くことになった。
これだけ何度も聞いていると、
ぼくのなかで、この法則は常識のようになってくる。
人間が自然を変えても、自然に変えられない
って思う人もいるんだろうなぁ、なんてことまで思うようになる。

一気に、いろいろのことがつながったのは先日のことだ。
深夜のNHKで、「腰痛」の起源についての番組をやっていた。
人類が、人類として存在したときから、腰痛はあった。
そういう内容だった。
太古の地層から発見された人間の化石に、
すでに「腰痛」の原因になる椎間板の異常があるという。
これは、同一の地域から発見された
小麦の粉を挽く道具を、
使い続けていたために起きた異常であるらしい。

人類が、農耕を始めて、
生きていくために自然を利用できるようになったとき、
それまでなかったかたちに、人類の肉体は変形していたのだ。
これは、かつて吉本さんが
自分の職業病として言っていたことと同じだ。
さらに、
「人間が、自然に働きかけて、
それを変えちゃうってことは、
 逆の側からも言えるんで、
 人間のほうも、自然の一部分に変えられちゃうんですよ」
自然界に、人間の食糧としての「粉」ができたとき、
「粉」をつくる人間もつくられた、と言うべきか。

ああそうか、と思ったら、
こういう想像は、いくらでもできる。

スポーツマンたちの筋肉や運動神経の発達も、
よいイメージで語られことではあるけれど、
「自然に働きかけて、変えられてしまった結果」である。
絵描きが世界を見るときに、
一般の人よりも見えるたくさんのものは、
絵描きが生み出した自然でもあるし、
それを見ている絵描きの目は、
自然に変えられてしまった人間の一部だ。

野球の投手が、よく手術して切除するという
ひじ関節にできる通称「ねずみ」と呼ばれる軟骨などは、
「速い球というものが数多く投げられる自然」の変化の、
こっち側にある「投げ手の人間」の変化だ。
書き物をする人間の指にできていた「ペンだこ」も、
ずいぶん小さな変化だけれど、そういうものだ。

演じることで、「他者たち」という自然を
泣かせたり感動させたりする役者は、
これまた「変形させられた人間」として、
芸という「ペンだこ」と同種のものを身に付けているわけだ。

マルクスという哲学者は、若いときに発見したという考えが、
吉本隆明という人に、「すげぇもんだな」と思わせ、
それが、さらに日常の会話のなかで、
「人間というもののお話」として語られてきたのだけれど、
さんざん遠泳して、ここまでたどり着くとはねぇ。

さぁ、もう、前編というやつを思い出していいだろう。
「どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、
 必ずいっちょまえになれる」
「いっちょまえ」とは「一人前」、
つまり「職業人」として認められているということだ。
「職業人」、プロであるということは、
「むろん神経や脳も含めた肉体が変形させられて、
自然の一部として機能している」
ということでもある。
自ら進んでサイボーグになった、とも言える。
そこまで変形しているものは、もう、
自然のなかに「変形しているもの」として組み込まれている。
つまり、それこそが、「いっちょまえ」ということなのだ。

「いっちょまえ」であるということは、
腰痛であり、過剰な筋肉であり、俊敏な神経であり、
不必要なまでの注意深さであり、豊かすぎる感受性である。
不健康とさえ言えるほどの「変形」があってはじめて、
自然(世間)は「この人(部品)がいなきゃ」と価値を認めてくれる。

人間をめしが食えるように「変形」させるには、
どうしたらいいか。
毎日、10年繰り返せば、それは変形するだろう。
ネガティブな言い方をすれば、
そんなふうに奇形化したら、そこにしか居られないよ、
という意味で「いっちょまえ」になる
ということでもあるはずだ。

「どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、
 必ずいっちょまえになれる」
の背景には、
「人間が、自然に働きかけて、
それを変えちゃうってことは、
 逆の側からも言えるんで、
 人間のほうも、自然の一部分に変えられちゃうんですよ」がある。
わりとシンプルなことを、
だらだらと説明してきたけれど、
ぼくが発見した(もともと吉本さんが言ってた)ことは、
そんなことだ。

ぜんぜん間違ってる、とは思わないけれど、
まだ足りないことがあるような気もしている。
いつも、吉本さんの話は、そういうものなので、
しょうがない。

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2008-12-08-MON
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