ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

ありがとうということ。

「ありがとうございました」とか、
「ありがとう」とか、「ありがとね」とか、
ぼく自身は、わりと言うほうかもしれない。

「ありがとう」ということばを言うのは、
いつのまにかおぼえた習慣みたいなものだ。
いや、いつのまにかおぼえるというよりは、
なんとなく教えられるというか、
「ありがとう」と言ったほうがいいな、と気づくとか、
ちょっとした契機があって、
「ありがとう」と言うようになったのだと思う。

ぼく自身のことで思い出してみると、
「ありがとう」と礼を言うことについては、
誰からも教育されてなかったような気がする。

ぼくが育った時代の、ぼくの生きていた環境では、
人になにかしてもらったり、
礼を言うようなことがあった場合には、
おとなたちは、
「すいません」「もうしわけありません」
と謝るような言い方をしていた。
そういえば、「感謝」ということばにも、
「謝辞」やら「謝意」にも、謝るという文字がある。

相手になにかしてもらったということは、
関係のバランスを欠いたことになっているのだし、
相手は、しなくてもいいかもしれないことを
わざわざしてくれたのだから、
まずは、それについて「許しを乞う」わけだ。
ほんとは有り難いほどのことを、していただいた。
だから、「すみません」なのだ。

「すみません」が一般的に使われている場では、
おそらく「ありがとう」ということばの出番はない。
「すみません」が下からの謝りのことばなら、
「ありがとう」は、ちょっと上の者からの
「おほめ」のことばに近いように、ぼくは感じていた。

おなじ小学生でも、
半ズボンでウールのジャケットを着た坊やは、
「ありがとう」と明るく言う子どもである。
そして、木綿の長ズボンの小学生は、
「すいません」と謝意を表わす
‥‥というものなのである。
ぼくは、あきらかに後者の「すいません小学生」だった。

だから、やっぱり何かの考えの変化がなければ、
ぼくはいまでも「すいません」として生きていたはずだ。
おそらく、どこかで「すいません」と言って、
「あやまられても困る。ありがとうと言うならわかる」
というようなことを言われたか、
そういうことを言われるものだと知ったか、
どちらかだったと思う。
でも、まだ「ありがとう」と言う人間に、
そう簡単にはなれるものじゃなかったはずだ。
なにせ、「すみません」で育ってきたのだから。

おそらく、自分以外の人が「ありがとう」と、
すらっと言うようすを、ぼくは、
とてもうらやましく見ていたのだと思う。
なんでも「すいませんすいません」と
謝ってばかりいるのは、日本人の悪いところで、
なにかについて感謝するなら、
堂々と「ありがとう」と言うべきだ、というような
新しくて姿勢のよい都会的な考え方を、
たぶんぼくは恐る恐る身につけていった。

恐る恐るにしても、
実際に「ありがとう」という機会がなければ、
練習はできないし、習慣になんかならない。
いまにして思えば、
ぼくの「ありがとう修業」のほとんどは、
異性に対してのものだったろう。
好意を持っている異性に対して、
「すいません」は似合わないと思ったのだろうね。

なんどもなんども、「ありがとう」と言う機会があり、
さらに、なんども「ありがとう」と言われてくると、
もう、「すみません」には戻れない。
言うのも、言われるのも、「ありがとう」はいいものだ。
たしかに、「すいません」の時代には、
「ありがとう」なんてしゃらくさいんじゃないかと思った。
なんとも、外国人っぽいような気もした。
実際、「さんきゅー」とかも、よく言ったものね。
(あ、でも、
 「thank you」の「thank」ってことばも、
 なんか「謝」というか「謝る」の陰影があるんじゃない?)

しかし、長いこと、
ぼくは「ありがとう」という、
都会で、自分で手に入れたことばを、
たくさん本気で使ってきた。

言われてほんとうにうれしかったことも経験している。
「ありがとう」ということばが、
なにかのビタミンのように周囲を元気にするのも見てきた。
こころにもない「ありがとう」でも、
それなりに小さな灯になる場面があるのも知っている。
「よっ」とか「おっす」みたいな「ありがとう」で、
すっと空気を揺らすこともできる。

そして、やっぱり、ぼくは
「ありがとう」と言われることが、
ずいぶん好きなのだと知った。

でも、ほんとうは「ありがとう」ということばの、
声になって出てきた元のところにある、
気持をもらうのがいちばんうれしいのだ。
言わなきゃわからない、とか、
「ありがとう」って言うから伝わるんだ、とか、
ずいぶん教わってきたような気がするけれど、
ほんとのほんとうは、そういうもんでもないよな。
わかりますよ、誰にだって。

これで、おしまい。
読んでくれて、ありがとうございました。

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では、おまけに、
どうして、この「ありがとう」についての
なにかが書きたくなったかということを、
言っておきます。

若いときに宮沢賢治の大ファンだったという
吉本隆明さんのところに、
宮沢賢治記念館で買ったおみやげを持っていったんです。
有名な『雨ニモマケズ』の詩が書かれていた
賢治が持っていたという手帳のレプリカです。
こんなのがあること自体を、
吉本さんは知らないかもしれない、
どう言うかなぁと思いながら、渡しました。
そしたら、「おお、こりゃあ」とか、
「あああ、こりゃ」とか、うれしそうに見てました。
そこで、「ありがとう」ということばはないんです。
「おお、こりゃあ」とか「あああ」が、
もう「ありがとう」の意味を持っているんですよね。

たぶん、吉本さんも「ありがとうございます」という、
「ございます」付きの「ありがとう」は、
社会的な会話として何度も言ってきたと思うのです。
でも、ほんとうは「すみません族」なんじゃないかなぁ。
下町のおやじさんは、「すいません」で育ってきていて、
「ありがとう」ということばは、
外国語を学ぶように、ネクタイを締めるように、
自分で練習することばだったはずなのです。
そんなことを思ったら、
「ありがとう」という声のない「ありがとう」について、
書いてみたくなったのでした。

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