ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

ここはどこ? わたしはだれ?

夜中に風呂に入って、
ぬるい湯にからだを浮かべながら、
ぼんやりと考えた。

「ここはどこ? わたしはだれ?」
ということばを知ったのは、いつごろだったろうか。

いかにもマンガのなかに出てきそうなせりふだ。
ドラマのなかでも、聞いたことあるようなセリフだ。
でも、どこで、いつ、聞いたのかわからない。

おそらく、ひとつの
よくありそうな「劇的なフレーズ」として、
冗談のタネになって、
あちこちで語られてきたのだと思う。

「ここはどこ? わたしはだれ?」
と、誰かが言いだせば、
そこに冗談のムードが漂ったりもする。
「ここはどこ? わたしはだれ?」
とは、よく報道で使われるような
「わけのわからないこと」としてあつかわれるのだ。

しかし、ぼくらは「ここはどこ?」か、
ほんとうに答えられるのだろうか。
ぼくのいる「ここ」は、あなたのいる「ここ」は、
ほんとうにぼくやあなたの思っている
「ここ」なのだろうか。

住所を知っていることが、
ほんとうの「ここはどこ?」への答えなのか。
みんなが同じ答えを言うということが、
ほんとうに「ここはどこ?」の正しい答えなのか。

あるいは、「わたしはだれ?」という問いには、
ぼくは、あなたは、なんと答えたらいいのだろう。
名前を言えばいいのか。
姓と名と、住んでいる場所を答えたら十分なのか。
ほんとうに、「わたしはだれ?」という問いに
答えられる方法はあるのだろうか。

いやいや、そんなにおかしなことを言うつもりはない。
「ここはどこ? わたしはだれ?」という
よく耳にするせりふが、
あらためてすごいなぁと思っただけだ。

もし、仮に、社会的な約束として
「ここ」については住所を答え、
「わたし」のことは姓名を言うというということが、
できないようなことになったら、
ぼくらは、どうすればいいのだろうか。

そんなことはない、と思いたいけれど、
まったくないわけでもないだろう。
悪いやつらに、目隠しをされて
クルマでどこかに連れていかれて降ろされたら、
それ「ここはどこ?」がわからなくなったということだ。

また、まったくことばの通じない外国のどこかで、
「わたしはだれ?」について、
いくらじぶんの名前を叫んでも、
相手には、だれだかわかりませーん、だろう。

ここがどこで、わたしはだれなのか、
知ってるに決まってるじゃん、というふうに
ぼくらは生きているのだけれど、
それはそんなにしっかりした土台の上にある
「ここ」やら「わたし」やらじゃない。

「ここはどこ? わたしはだれ?」
について、確信を持っていられるというのは、
人間が生きるための最低限の知識なのかもしれない。
それを知りさえすれば、まずは落ち着けるというくらい、
それは大事なことなのかもしれないが、
あんがい、しっかりした答えなんかないんだよなぁ。

そのへんで、ぼくは風呂からあがった。 ちょっとのぼせそうだった。

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