ITOI
ダーリンコラム

<耳からの理解。耳のたのしみ。>

『今日のダーリン』で予告したとおり、
さっそく、吉本隆明講演アーカイブに関係する内容だ。

ぼくは、自分自身が、
さんざん講演の録音を聴いているものだから、
人は講演の記録をおもしろいと思うものだ、と、
簡単に考えすぎているところがある。

実際には、
こんなにおもしろいものはない、と
周囲の人たちには薦めているし、
今回だって、商品というパッケージにして
買って聴いてもらおうとしているのだから、
こころからそう思っていることは確かなのだ。
しかし、こういう話をされたからといって、
講演の記録を、聴いて楽しんだり学んだりすることを、
すぐにやってみようと思う人は、
あんまりいるもんじゃないだろう。

事実、ぼくだって、そんな習慣はなかった。
それがどうして、こういうことになったのかといえば、
小林秀雄の講演が、カセットテープのかたちで
新潮社から出版されたのがきっかけだ。
小林秀雄の書いたものについては、
なかなか理解できないものと決めつけていたぼくは、
しゃべっているものなら、
なにかわかるかもしれないと、
そのカセットテープを買おうとした。
そのころ、ぼくは新潮文庫の広告の仕事をしていたので、
営業の人が、「じゃ、見本でさしあげますよ」と、
自分のデスクまで取りに行ってくれた。
「ありがとうございます。
 こういうの、売れるんですか」と、
ごく一般的な質問をしたら、
「いやぁ、むつかしいですよ!」と即答が返ってきた。

ぼくは、小林秀雄という人について、
名前と、勝手な印象以外には、何も知らなかった。
読もうというつもりで買った本もあったのだけれど、
読みはじめてすぐにやめたものだった。
そういう言い方は、ほんとうに不遜なのだけれど、
「昔の人が心酔している教祖」みたいに見ていた。
でも、ぼくの父親の世代の人たちの間に、
こんなに難解そうな批評家の本が、
ベストセラーとして流通していたんだという
うわっつらの知識はあった。
難しいのによく売れた批評家、という存在に対しては、
好奇心が残っていた。

クルマに乗って、カセットテープを聴くことにした。
人間ばなれした教祖などではなく、
人間そのものの声が、流れてきた。
落語でなじみのある東京の人の口跡で、
内容以上に、もっと聴きたいという心地よさがあった。
「タバコをやめたんだよ」というようなまくらがあったり、
ユリゲラーという「超能力者」タレントの話題があった。
わからない話は、ひとつもなかった、ような気がした。
クルマに乗っている時間というのは、
移動のための時間だから、
講演をすべて聴き終えるためには足りないことになる。
ぼくは、道を遠回りして時間を稼いだ。
それでも足りなくて、
自分の駐車場に着いてから「講演」を聴き続けた。

『文学の雑感』『信ずることと考えること』
というタイトルで、2巻のカセットをもらったのだけれど、
こんなにおもしろいものなら、
いくらでも発行してほしいとさえ思った。

耳から入ってくる小林秀雄というのは、
ぼくと同じ「ひとつの場」にいる、
そういう感覚があった。
しゃべっていることばが、
何を言っているのかわからない人だっている。
しゃべっている内容が、
まったくおもしろくない人もいる。
でも、おもしろい人の話というのは、
たいがいおもしろいものだ。

いまにして思えば、
もともとぼくは人の話を聴くのが好きだった。
考え考えしゃべる町の人の話も、
ふだんは退屈な授業をする先生の昔話も、
そういえば、おもしろく聞いていた。

いまでこそ、「しゃべりことば」を軸にして、
ほぼ日刊イトイ新聞なんてものをやっているけれど、
これは、もともとのぼくのライフワークなのかもしれない。

思えば、世間がぼくのことを
多少なりとも知ることになったきっかけは、
矢沢永吉激論集というサブタイトルの
『成りあがり』という聞き書きの本だった。

その後、NHK教育テレビで番組の司会という役を、
何年か続けたけれど、それも、
主に「誰かの話を聞く」というのが仕事だったと思う。
企画といっても、誰のどういう話が聞きたいか、
そのいい考えさえあれば、だいたいおもしろくなる。

ゲームの世界に素人として参加して、
『MOTHER』というタイトルを3作つくったけれど、
その仕事の重要な部分のほとんどは、
話すことばと、聞くことばを考えて書くことだった。

そう説明されたら、きっとみんなも気づくことだろう。
ほぼ日刊イトイ新聞というのは、
読んでわからないことも、
しゃべった話を聞くことならけっこうわかる、
そんな仕掛けでできているということが。

おそらく、人間の歴史のなかで、
読んだり書いたりすることというのは、
あんまり長い時間かけて練習してきたものではない。
文字が生れてからの時間が、
どれだけ長いとしても、たいしたことはない。
もっと言えば、その文字や書物というものが、
大衆の道具として誰でも使えるようになったことなんて、
つい最近じゃないか、とも言えるだろう。

映画やテレビを見ていたり、
授業を聞いていたり、
仕事の場でミーティングをしていたり、
ともだちとただのおしゃべりをしていたり、
家族で過ごしていたり、という時間は、
ぜんぶ、口と耳が
コミュニケーションの中心になっているのだ。
目で書かれた文字を読むことのおもしろさ、
便利さ、味わい深さなどについては、
多いに認めるつもりだ。
でも、ふつうに暮らしているぼくらにとって、
口と耳を使って、
しゃべりことばをやりとりすることのほうが、
何倍何十倍も練習しているやり方なのだ。

そろそろ、話を戻さなきゃね。
つまりその、こういうふうな自分だから、
おもしろい講演のおもしろさについて、
当たり前のことと思いすぎている可能性がある。
しかし、おもしろい講演を聴くことが、
とてもおもしろいこと‥‥ではない、と
言い切れる人も少ないはずだ。
なぜならば、だいたい、みんな、
口と耳をおおいに役立てて
コミュニケーションしているけれど、
講演の記録なんて、聴いたことがないのだ。
聴いたことがないのだから、
おもしろいもつまらないも思えないし、言えない。

「放送席、放送席、
 こちら現場ですが、そういう市場の状況です」なのだ。
これまでにも、「縁がないなぁ」と人々が言うもので、
「知ってみたらずいぶんおもしろいものですよ」と、
薦められるようなものについては、
いろいろと企画を考えてきたものだ。
落語とか、ジャズなどは、うまく受け入れてもらえた。
考えようによっては、ハラマキというものも、
「経験したことないから、よさがわからない」
ものだったはずだ。
でも、わかってもらえた。
とても大勢の人々とは言えないかもしれないけれど、
じゅうぶんにたくさん、と言える人に、
ハラマキのよさがわかってもらえたという思いがある。

吉本隆明さんの講演は、ぼくには、
ほんとうにおもしろかったし、
いまでも、その都度新しい気持ちで聴いている。
正直に言うけれど、仕事の側面もあるのは確かだが、
おもしろいし、発見があるので
おたのしみとしての快感があるのだ。
しかし、それをどんなに強く言ったとしても、
なかなかわかってもらえるものじゃない。
それは、仕方がないことなのである。

しかし、仕方がないで済ませていたら、
ぼくの投げたいボールは、永遠に、
向こう岸まで届かないということになる。
それでも、ぼくはこのボールを投げたいのだ。
投げたボールが、みんなのところを転がって、
そこでまた、新しいたのしみの輪がひろがっていく。
そんなことを夢みているわけだ。

数えれば200講演にもなるという音源は、
いったんデジタル化したから、
よほどいい加減な管理でもしないかぎり、
劣化して消えてしまうということはないだろう。
まず、そこまではやり終えた。
だけど、これだけの興味深い講演を、
ただ記録を保存しましたということで
終りにしてしまうのでは、
あまりにももったいないではないか。

まず、ぼんやりと、こんなことを考えるところから、
吉本隆明講演アーカイブをどうするか、
というプロジェクトは、はじまったのだった。

続きは、この『ダーリンコラム』で書くか、
あるいは、他のページで書くか、しゃべるか、
まだわかりません。
ほんとは、この後のほうがおもしろいはずなのですが、
前提になる「耳からのたのしみ」のことを、
なんとなく知っておいてもらいたかったので。

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2008-06-30-MON
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