第5回 一輪の花と等価の詩が書けたら。
糸井 谷川さんは絵本をたくさん
翻訳してらっしゃいますけど、
それは、抽象的だったり観念的だったりすることを
ひらがなの世界に翻訳して
子どもにも伝えていくということを
意識してらっしゃるからですか?
谷川 う〜ん、どうなんでしょうね。
まず、ぼくは、絵本の翻訳というよりも
絵本っていうメディアそのものがむしろ好きで。
絵とテキストの関係みたいなものに、
ずっと関心があるんです。
糸井 ああ、なるほど。
あの、絵って、しゃべりことばよりも、
もっと口数が少ないというか。
谷川 そうですよね。
だから、ぼくはまず、
その口数の少なさに対するあこがれがあるんです。
糸井 あこがれ。あこがれかぁ。
谷川 あこがれますね、ぼくは。
「黙っていられるなんて素敵」って。
ぼくは無口なんですよ、基本的に。
こういうところでは、
一生懸命しゃべっていますけどね、
相当無理してしゃべってるんですから(笑)。
一同 (笑)
糸井 ええ、ええ(笑)。
谷川 だから、ことばのないものには、
やっぱりあこがれますね。
自然もそうだし、絵もそうだし、
音楽もそうなんですね。だから、
「ことばでどこまで音楽に迫れるか」
みたいなことはしょっちゅう考えますね。
糸井 あの、最近ぼくはよく思うんですけど、
ことばで語る以前のところに
「こころの問題」というのがあると思うんですよ。
つまり、ことばを発しないものたちに
こころがないかっていうと‥‥。
谷川 そんなことないですね。
糸井 はい。あるんです。
それは赤ん坊でもそうだし、
ぼくはいつも犬を見ている人間になっちゃったんで
犬を見ながら思うことが多いんですけど、
犬を見ていると、どうやら、こころはある。
谷川 うん。
糸井 すると、ことばで言い訳をするまえのところに
誰しも、こころというものがあって、
谷川さんはそれに対していま
「あこがれ」とおっしゃった。
ぼくの場合は、犬を見つめながら、
「ああ、自分の中に、この犬がいるんだ」
っていうことに気づくわけです。
そして、その気づきこそが、
世界を詩的なものに感じさせてくれるんですね。
谷川 なるほどね。
糸井 で、ホッとするんです(笑)。
谷川 うん、そうだねぇ(笑)。
糸井 俺のつまんなさの根っこには、
こいつがいるっていうか。
谷川 ふふふふふ。
糸井 でね、できあがるまで中身は読まずにいた
『思い出したら、思い出になった。』を
あらためてパラパラと見ていたら、
そういうことを、やっぱり自分で書いてる(笑)。
黙っている犬を見て、犬が黙っているからこそ
何倍も考える自分というものについて。
ぼくは、相手が黙っているとき、
その広さと大きさに畏敬を感じるんです。
谷川 だから、詩って、ことばの中でも
いちばん黙っていることばなんですよね。
糸井 ああ、そうか、そうか。
谷川 理想も含めていうとね。
だから、詩っていうのは
「必ず何かを伝える」というものじゃないんです。
散文は必ず何かを伝えなきゃいけなくて、
情報を持ってないといけないんだけど、
詩はぜんぜん情報なくていいわけですよ。
糸井 うん、うん。
谷川 およそ実用性とはほど遠いんだけど、
そのわずかなことばから
ある情景が立ち上がって存在したりする。
詩に、ひとつ意味があるとしたら、
「なにかを存在させること」です。
その意味でいえば、
理想はたとえば一輪の花なんです。
一輪の花と等価の詩が書けたら、
これはすごいんです。
一輪の花は黙っていて、何も伝えないんだけど、
そこに見事にあって美しいわけじゃないですか。
散文というのは、
「この花はこういう種類のもので、
 原産地はどこで‥‥」みたいなことを
しゃべらなきゃいけないんだけど、
詩は、もう、その花になれたら。
糸井 いいね、ですね。
谷川 うん。
いいんだけど、なれないんですよね、
これが、残念ながら(笑)。
どうがんばってもなれない。
糸井 (笑)
谷川 だけど理想はそこですね。
糸井 はい。
  (続きます)

2008-04-24-THU



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