じぶんで決める、じぶんの仕事。 『アルネ』の大橋歩さんに、糸井重里が聞きました。
 


第6回 私が、デザイナーをクビにしたんです。

糸井 『平凡パンチ』をやっている間に、
70年かそこらになって、
『anan』の創刊がありますよね?
大橋 そうです、70年です。
糸井 あれもね、どう言ったらいいだろう、
僕はそのときに多分
21、2だと思うんですけど、
『anan』編集部って場所があるってことが、
もう僕なんかにしてみると、
「天空の城ラピュタ」なんですよ。
大橋 あ、そうなんですか?!
糸井 そして、大橋さんはそこにいる、
スカート翻して「おはよう!」って
言ってる人なんですよ(笑)。
アニメの中で言うと。
大橋 (笑)いや、そんな。
糸井 ご本人は笑っちゃうでしょうけれど。
だって、その大橋歩さんが描いた絵の
レイアウトをしてる松原さんが、
僕の憧れっていうくらいの、
メジャー感ですから。
ま、実態は、狭いものだと思うんですね、
今にしてみれば。
大橋 そうですね。
糸井 メディアがそんなにたくさんなかった時代で、
平凡出版って言ったって、
ちっちゃい会社です、思えば。
でもそれが日本中の子たちに
影響を与え続けていたから、
そこのフォロワーの人たちからすると、
そこは天空の城ラピュタなんです。
で、原宿をうろうろしてる子たちが、
「俺はこんなところにいないで、
 平凡出版の就職試験を
 受けるべきじゃないか」って
思ってたんですよ。
だって、平凡出版に出入りしたことが
あるっていうだけでも、
もうすでに威張ってましたからね。
大橋さんの前では、
“アルバイトの青年”である男の子が、
原宿に来て、僕の前にいるときには、
「俺の今やってる『anan』忙しくてさぁ」
なんて言うわけです。
目立つ格好をして、
いろんな有名な人の名前を絶えず言って、
原宿にその自慢をしに来るやつがいたんです。
そんなようなやつがね、いる場所がね、
今は‥‥どこなんだろう?
大橋 どこなんでしょうねえ。
糸井 当時の原宿にはそんなものが
行ったり来たりしてて。
で、女の子なんかもさ、
そのファッションに興味がある子たちがね、
ただ座ってるんですよね、一日中。
大橋 そうなんですよね。
糸井 で、ナンパしたりされたり、
もう、何あれ? っていう、
田舎くさいロンドンですよね、きっとね。
大橋 ああ、そうかもしれない。
糸井 で、そん中にほんとに
ロンドンに行って来た子とかが‥‥
大橋 いましたからね。
糸井 うん、で、お土産に、思ったより、
ずっと裾の広がってるパンタロンとか、
初めて見た、ハイヒールの男のブーツとか、
いちいちね、もうね、
「あ、俺は遅れてる」って
みんなが毎日思ってるわけです。
大橋 そうなんですよね。
毎日、そうでしたものね。
 
 
   
大橋さんが旅先のロンドンのホテルから送った手紙。
ホテルのびんせんに書かれている。
このイラストは、のちに
『平凡パンチ』の表紙につかわれた。
糸井 毎日「俺は遅れてる」
と思ってるようなところで、
競争なのか何なのか、
で、誰も別に大きくなったりは
しないんですね。
そんなようなもんなんです。
で、その中で、僕は正直に言うと、
そこのムードにフィットは
してなかったんです。
で、何かここにいるのもなあと
思っていたんです。
大橋 そうだったんですか。
糸井 僕のいる、渦巻きみたいな原宿で、
頭の中が行ったり来たりしてた。
大橋さんはそのときには
もうすでにメジャー界の、
『平凡パンチ』の人だったんです。
そのときの大橋さんが描いた絵って、
子供心に‥‥っていうか、
“若い人心”に思っていたのは、
この人は、どんどん
走って行っちゃった、って。
色の使い方から選ぶ服から、
つまり題材にする服の選び方だって、
絵描きのセンスですよね。
大橋さんが、化けてっちゃうのを、
見ていた覚えがあるんですよ。
大橋 ああ、でもあの後半は
松原さんていうデザイナーが
とても優秀で、
どうやって表紙として
よく見せてくかっていうところを、
デザイナーの立場で、
ほんとうにいろんな技術を使って、
私の絵をお料理してくれていたんです。
それが後半のパンチを
持たせてくれたんじゃないかなと
思いますね。
糸井 お料理されてるっていうことを経験すると、
自分の絵はまたもう一つ、
箍(たが)が外れるっていうか、
楽になっていくっていうことはないんですか?
大橋 いえいえ、ないんですよ。
糸井 ないんですか!
大橋 そのときは全然、それが嫌で。
糸井 嫌なんですか!
大橋 そう、何でこんなふうになっちゃうの?
とか。
全然私が描いた色じゃないじゃないとか、
もう大げんかするんですよ。
糸井 面白いなあ、そういうのって。
大橋 そうなんです。それですごい喧嘩して、
とうとう、すごい私、
鼻持ちならない(笑)人で、
松原さんを一度クビにするんです。
糸井 あー、なるほど。
大橋 それで何と長友啓典さんと、
小西啓介さんが、
新しくやってくださったんです、
それで、またしばらくすると
ちょっといろんな事情があって、
お二人が辞められて、それでまた、
松原さんにまた戻ってきていただいて。
でも全然あの方は嫌なふうに、
こう、何て言いましょう、思われなくて、
‥‥思ってらしたかもしれませんけど、
また元に好きなようなデザインを
してくださった。
私は、そのときぐらいになって初めて、
「あ、もしかしたらイラストって
 素材だな」ってわかってくるんですね。
  【註】
長友啓典:1939年大阪生まれ。アートディレクター。
桑沢デザイン研究所卒業後、日本デザインセンター入社、
1969年に黒田征太郎氏と共同でK2設立。
『写楽』の創刊にたずさわるほか、
『流行通信』や『GORO』をはじめとする多数の雑誌、
企業広告ポスターをてがける。画、エッセイの分野でも活躍。

小西啓介:1943年東京生まれ。アートディレクター。
都立工芸高校デザイン科卒。日本デザインセンター入社。
原弘氏に師事、1974年サンアドに入社。さまざまな企業広告を担当。
1982年小西啓介デザイン室設立。
マガジンハウスの雑誌「Hanako」は創刊から参加。
糸井 ああ!
大橋 私は素材なのだから、
やっぱり料理をしてくれないと。
もちろん素材次第でお料理っていうことも
なくはないかもしれないですけど、
やっぱり料理人の腕が一番なので。
そして松原さんというのは、私の絵を上手に、
ほんとに上手に料理してくれる人なんだと
わかったんです。
で、そのころから、多分、こういう業界から
「週刊誌の表紙を描いている、
 下手なイラストレーターだったけど、ましになった」
 っていうふうに
思われるようになったと思うんです。
糸井 いえ、そんなことはないですけれども‥‥。
大橋 松原さんが誌面を、
ちゃんとその時代に合ったデザインにして
くださったことによって、
突然私はイラストレーターとして、
認められるようになったのですよ。
その当時ね、
東京イラストレーターズクラブっていう、
そうそうたる人たちが所属している、
クラブがあったんですね。
そこからやっと声がかかってきた。
糸井 それまではじゃあ、
そことは無縁だったんですね、
大橋 全くそういう業界とは無縁でしたね。
糸井 それもある意味では運がよかったですね。
大橋 どういうふうに?
糸井 つまらないもまれ方を、
しなかった、という意味で。
大橋 ああ、はい、はい。
糸井 そういうものは、
なくていいんですもんね。
大橋 ええ。で、結局1年ぐらいで
そのクラブは辞めてしまうんですけど。
糸井 つまらなくなって?
大橋 というか、やっぱりグループが、
ちょっと、私、苦手で‥‥。
糸井 職能団体って、合ってる人には合ってるけど、
合ってない人には本当につまんないもんだと
思いますよ。だって個人技を磨く仕事の人が、
集って「せいの!」で何かをやるなんて、
根本的には無理ですよ。
大橋 ‥‥と私は思う方なので。
糸井 僕もそれは思います。
大橋 けれども、当初は、
イラストレーターズクラブから
声をかけていただいて、
ちょっと有頂天になりまして。
で、一緒に会員になったのが湯村輝彦さん。
こんなにかっこいい人と一緒に
イラストレータークラブに入れて
嬉しい! と思ったんですけど、
松原さんに一喝されまして。
「一匹狼の方がかっこいいよ」
って、
それでしゅんとなって、
辞めちゃうんです。
糸井 (笑)
  【註】
湯村輝彦:1942年東京生まれ。
元祖「ヘタうま」イラストレーター。
主な著作・作品集に『さよならペンギン』
『情熱のペンギンごはん』(糸井重里と共著)
『へたうま略画・図案辞典』『甘茶ソウル 百科事典』など多数。
https://www.1101.com/hetauma/
 
(つづきます!)
2007-02-07-WED
協力=クリエイションギャラリーG8/ガーディアン・ガーデン
 
 


(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN