相田さん、だいじょぶか?
「なんとかスタン方面」からの現場報告。

レポート#11  ムフティーの弁論大会で質問する

11/1 雨

生憎の天気の中、待ち合わせのホテルへ向かう。
フルカツ君の他に、もう一人先生の教え子
デラ嬢も来ていた。
彼女の田舎のほうにも行ってみようとのこと、
まことに結構である。
何でも彼女は先日スナガワセンセイのところで
沢田というフォトグラファーのビデオを見たそうだ。
大沢たかお君のようなかっこいいのを
期待していたんだろう。
残念だったな、デラ。
理想と現実はつねに食い違うものなのだよ。

最初に向かったのは、アリ・ブハリという偉人のモスク。
彼は、ハディース(マホメットの言行録)を
編纂した人としてイスラム世界では名高い。
ブハラで生まれ、42年間アラブ世界を旅して
20数冊の著述をのこした偉人である。

ひととおり見学してから、このモスクにいるはずの
サマルカンドで一番えらいムフティー(イスラム聖職者)へ
面会を申し込む。
ところが、彼は今日サマルカンドの市内にいっており
留守だ、と言われる。
若いムフティーの弁論大会のようなものが
開かれているそうで、
優勝者はメッカへの巡礼にいかせてもらえるという。
「日本のジャーナリストなら見学させてもらえる。
 ぜひ行くことをお勧めする。」
留守役のヒゲおじさんがそう勧めてくれるので、
予定を変更して市内にもどった。

市の中心にある無名のモスクの一角で
弁論大会は開かれていた。
さほど広くはない2つの部屋が会場として使われている。
大人数で入るわけには行かないので、
僕とデラ嬢が行くことになった。
一つの部屋には、サマルカンド県下から選び抜かれた
若いムフティーが壁を背にして
あぐらをかいていて待っている。
そして、一人ずつ呼ばれてもう一部屋に入り、
審査を受けるのだ。

最初に審査中の部屋に入れてもらう。
若いムフティーが居並ぶお歴々から
質問を浴びせられていた。
そして歌うようにアザーンを口ずさむ審査。
あんまり面白くないので切り上げて部屋を出た。
続いてもう一つの部屋に入る。
コチラは只の待合室ではなくて、
議論と質問の場でもあった。
座の中央には市のイスラム団体の関係者が座っていて、
その黒ヒゲおじさんがさかんに手を振り回して喋っている。
若者からの質問も相次ぐ。
談論風発、盛り上がってるなあ。
「デラ、何はなしてんだ。」
「いまねー、テロの話とかしてます。面白いです。」
「ほんとか、教えろ、通訳してくれ。」
「チョット待って。メモ取ります。」
僕が質問したものも付け加えて、
そのときの話を下記に要約する。

どんなことを言おうとも、
罪無き人間を殺すのはコーランの教えに反しておる。
だからビンラディンなどは本当のイスラム教徒ではない。
やつは単なるテロリストだ。
この国にも以前はムハマド・ソルファーが率いる
ワホビーというイスラム復古主義(原理主義)の
団体があった。
ソルファーはエルクという団体を作って
’95の大統領選挙にも出た。
ところがウズベキスタンの国民は彼を選ばなかった。
それ以降、わが国の法律では信仰は個人の自由となった。
もちろんイスラム教徒がほとんどであるが、
異教徒であるからと言って差別してはならない。
ところでワホビーだが、彼らは’98に
タシケントでテロを起した。
インターコンチネンタルホテルや議事堂を
爆破しおったのだ。
これで国民も奴らが危険な思想を持つ
テロリストだと知ることとなった。
実行犯をつかまえてみると、みな若くて純粋な若者だった。
彼らは危険思想に洗脳された上、外国の軍事教練施設で
武器の使い方を学ばされていたのだ。
彼らの中で、自らの非を悟ったものは許された。
しかし、考えを改められないものはいまだに牢獄にいるか、
または死刑に処された。
こうしてワホビーは壊滅した。

質問:
ナマーズ(一日5回の礼拝)はどうなんでしょうか。
コーランでは定められていますが?


現代社会おいて、一日に5回の礼拝をすると言うのは、
仕事や勉強をしておったら実際には無理なことである。
復古主義の連中はそれを行わないと
イスラム教徒ではないというが、とんでもない。
形だけで済ませればよいと言うものではない。
心が大切なのである。
たとえナマーズを行えなくとも、
仕事、勉強といった己の勤めを果たし、
心の底からアラーを信じておれば、
形にとらわれて本質を見失ったモノドモよりも、
よっぽど良いイスラム教徒であるのだ。



質問:
イスラムでは女性は家庭のために尽くすのが
良いとされているはずですが
仕事のできる女性も多いはずです。
この点は?


基本的には男女は平等である。
家庭のために尽くすべきか、外で働くか
それは各々の自由である。


「うん、おもしろいな。
 僕がどうしても知りたかったことが
 やっとクリヤーになったよ。」
「彼は、今日の話を村に帰ってから
 マハッラで皆に話すようにといってました。」
「マハッラてなんだい?」
「ムカシからの風習で、集会のようなものです。」
村の寄り合いのようなものらしい。
帰るときに声をかけられた。
「わが国のイスラムについて質問があったらいつでもいい、
 市役所の中に部屋があるから聞きにきなさい。」

すでに昼を過ぎていたので、
市内のレストランで昼食を取る。
ちゃんとしたレストランでの食事など久しぶりだ。
入り口の脇に炭火焼場が設けられていて、そこで肉を選ぶ。
種類は羊と鳥と牛と豚だ。
フルカツ君が豚を、残り3人はチキンを選んだ。
「いいのかい?豚なんか食べて。
 君もイスラム教徒だろう。」
「ノープロブレム。」
午後からはフルカツ君の叔父さんの農場へ向かう。
ソビエト時代は集団農法が主だったらしいが、
いまはみな自由農民である。
「まあまあ上がりなさい」とすすめられ、
のこのこ入ってゆくとその部屋は妙齢の女性ばかりである。
近く結婚するそうで、長男の結婚式の為に集まった
お母さんの同級生だ。
座らせられた上座の後ろに
贈り物の布団が積まれていたので、
ほっぺたをすりすりしてから
「はらしょー、やくしー」といって
とりあえず場を和ませる。

いつものことだが身売り手振りでギャグをいうのは
本当にムズカシイ。
通訳のデラ以外は部屋に入ってきていない。
みんなずるいなあ、おばさんたちにいいように遊ばれる。
そのうちに花嫁が挨拶に来た。
花嫁衣裳でゆっくりと何度もお辞儀をする。
ところがその間おばさんたちは
ピーチクパーチクおしゃべりを止めない。
こりゃ失礼なオバハンたちだなあ。
と思っていたら大違いで、
「子供が5人はできますように」
「いつまでも仲の良い夫婦でいますように」などと
願い事を言う慣わしであるそうな。


サマルカンド外語大学にて

日暮れ前には市内に戻ってきた。
スナガワセンセイの部屋にお邪魔して
電話回線を借りる。
イトイ新聞からの読者メールもいくつか拝見する。
アフガンとかビンラディンとか
息巻いている回を読んでのメールなので気恥ずかしい。
この場を借りて釈明しておきます。
「私はウソは嫌いだがギャグは好きだ。
 たとえオヤジギャグであろうとも。」
以上。みなゆるしてね。

イトイ新聞の皆様にお願いのメールを送り、
帰ろうとしたが、
すながわせんせいが一人でご飯を食べたくない気分らしくて
しきりに引き止めてくださる。
ウルマス家では待ってるだろうと気になるが、
「こちらで半分、帰って半分食べれば
 よいじゃあないですか」
とまで誘って下されては帰るわけにはいかない。

砂川氏はサマルカンドにおける日本語教育のパイオニアだ。
首都タシケントでは
10年以上前から日本語の先生いるそうだが、
サマルカンドには、砂川氏が来られるまで
日本語教育が存在していなかったのである。
しかも砂川氏は誰に頼まれたわけでもなく、自分の意思で、
ボランティアでいらっしゃったのである。

2001-11-27-TUE

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