今日のダーリン

・大谷翔平がライトへのサヨナラヒットを打ったことだとか、
 ダルビッシュ投手が7回を2安打におさえ、
 日米通算200勝をあげたことだとか、
 知っていても知らなくてもなんにも変わらない。
 しかし、そういうことを好きで知っているのだから、
 ぼくはそれを知ってよかったのだ。
 
 でも、それ以上に、ぼくは知らなくていいことを
 知りすぎているような気がする。
 ニュースの形式で伝えられていることは、
 いかにも大事なことですというふうに伝えられる。
 ここでいちいち具体的には書かないけれど、
 そんなことについて、「あなた(わたし)」が
 そんなに詳しく知っていてなんになるのだと思う。
 ついつい知ってしまう程度のことでも、
 ほんとはどうでもいいかもしれないくらいなのに、
 「けっこう詳しい」ところまで…どうして?
 そのことについて、無責任な会話などがあったとき、
 「知ってる者」としていようとしているのだろうか。
 たとえばスポーツ賭博について「知ってる者」であって、
 なにかいいことでもあるのだろうか。
 さまざまな異常な犯罪について詳しくなって、
 世界を見る視点がなにかよくなるのだろうか。
 そういうことを「あなた(わたし)」に言ってやりたい。
 
 妙に珍奇で、刺激の強い情報がどんどんニュースになる。
 「いやだねぇ」というため息を深くするために、
 あれやこれやの事件なんかについて詳しくなっているのだ。
 そして、刺激ばかり強い事件に「商品価値」があるとして、
 狙ってその方面のニュースをつくる人たちもいる。
 世間はよく「デジタル情報の断捨離」とか言うけれど、
 選別するまでもないゴミのような情報を、
 わざわざ拾い集めているのも、じぶんなのである。
 
 ぼくは、これからは、もっと
 「そんなことも知らないんですか?!」と
 言われる人間になろうと思う。
 「論語」だの「俳句」だのを知ろうとする時間だとか、
 遠くの景色を眺める時間のほうを、多くして。
 でも、実際、好奇心ってやつは止められないんだけど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
俗人なりの、凡人なりの、「温故知新」をやってみたいす。