糸井重里の 「喩としての聖書──マルコ伝」の 聞きかた、使いかた。
「喩としての聖書──マルコ伝」 講演音声をフルダウンロードできます。
『吉本隆明 五十度の講演』喩としての聖書──マルコ伝 より

第4回 全部そうでしょう。
こんにちは、糸井です。
今回お話しするのは、ぼくが最初に
「喩としての聖書──マルコ伝」の講演を聞いて、
もっとも心に残った部分です。
05 イエスも自分自身を信じきれなかった
のところを聞くだけでも
とてもおもしろいと思うので、
ぜひ講演をダウンロードしてみてください。

いまを生きている「現代人」たちは、とくに
人が何を言うだろう、とか
自分がどう思うだろう、という
ことのなかにいると思います。
足を引っ張る、褒める、出し抜く、裏切る、敬う、
いろいろあります。
なかでもとくに、インターネット以後は、
攻撃のしあいというものが
目につくようになりました。
「この意見に賛成できないな」
「いまこの人を攻撃できるな」と、
ビュンビュンと爆弾が
飛び交っているようなイメージがあります。
おまえは人を救うためにさまざまなことを述べてきた。そして、ある場合には人を救ってきた。それならば、いま十字架上にかけられているおまえは、自分自身を救ってみろ。そうしたらば、俺はおまえの言ったことを信じてやると言うのです。群衆たちも人々も役人たちも、そう言うわけです。
イエスは、十字架にかけられ、最後に
「人を救えるんだったら、いま自分を救ってみせろ」
という攻撃を、周囲で見ている人たちから
されたんですね。
「やってみろよ」と言われて
「よーし、やってみるよ!」
と応えるのが唯一の解決に思えるんだけど、
できなかったんです。
実は、これは
誰もができない、という話だとぼくは思います。

このときもしも、イエスが奇跡を起こして
雷が落ちてきて自分を助けました、
ということになったとしても、
果たしてみんなは納得するでしょうか。
そうじゃないと思います。

「1回目は確かに助けたね」
「あれはたまたまだよ」
「運がよかったんだ」
という話になるのではないでしょうか。
「それじゃ、2回やったら信用してやる」
「今度こそ」ということになって
みんなはきっと、
もっとひどいことをするんですよ。
「ほら見ろ、できないじゃないか」
というところまで追っかけてくるから、
これは、やらなくていいんです。
やっても終わらない、1回「やらない」でいい。
ここは吉本さんは、言及はしてないところなんですが、
何回も講演を聞いてるうちに、
「これでくぐり抜けたらどうなるんだろう」
「あ、くぐり抜けたら次が待ってんだ」
ということに気づきました。
果てない、無限の不可能性です。

この果てのなさに気づいていて、
そんな攻撃なんて思わない人もいるからね、
というふうにぼくは考えてたんですが、
吉本さんは違います。
思わない人と思う人がいるんじゃなくて
思うのが人間なんだ、と言います。
あいつ何偉そうなこと言ってんの、あいつ知ってるけどこうじゃねぇか、というふうに言いたくなるってことはあるわけなんです。だけども、その場合に、自分のほうは棚上げにしてあるわけですよ。自分もそうなんですよ、自分もそうだってことは誰でもそうだってこと、誰でもそうだってことは、人間は誰でもおなじだよという意味ではなくて、人間性というものの中に根ざしているものは、誰もおんなじものがあるのですよ、ということなんです。人間性の、ある本質というものは、そこに含まれてるんですよ、ということです。
そうなんだよなぁ。
人間の脳のしくみは、そうなっていて、
だからこそ進化してきたんだというような
研究もあるくらいですから。

相手がすばらしいということを
なるほど、と言っているだけだったら、
競争もいさかいも起こんないし、
生存競争も減ります。
見栄を張り合ったり、
ふかし合ったり、ウソつき合ったりするという
このいやな「人間性」というものがやってきた
進化の歴史というのは、
よかったか悪かったかは別として、
いまの人間のあり方と社会を作ってきたんだな、と
しみじみ感じるわけです。

人間の行為というのは、ほんとうは
「あれはいい」「あれは悪い」と
分けられるものではないのです。
自分が正しいと思い込んで、
間違った人のことを怒る人がいますけども、
その人も、あの人も、
みんな同様に抱えてるんだ、
それが人間なんだ、
足で歩いて目鼻が顔についてる、それとおなじ。
このことは、この講演を聞いていていちばん
「えーっ!」と、びっくりしたところです。

ふつうだったら、
そういう人とそうじゃない人がいて
世の中そういう人が多いよね、
という話で終わらせてしまいます。
でも、吉本さんの、真実を見る目というのは
「多かれ少なかれ全部そうでしょう」
というところに行くんですね。

「全部そうでしょう」というのは、
すごい言葉だと思うんです。
逆に言えば、
「全部そうでしょう」と言わないと、
わかんないことだらけになってしまうんですよ。

これは、善人であるか悪人であるか
というような話ではありません。
抱えているものがまず
「全部そうでしょう」のようにあって、
そこから、
どこに置かれているか、
どこに生まれたか、
どういう関係であるか、
ということによって
その人のやることが決まるのです。

実は、このあたりのことは、
みんなが何かとおもしろがって使う
吉本さんの「関係の絶対性」という言葉に
つながっていきます。
例えば──
あるところに、雨だれのせいで
穴があいた石があったとします。
その石は雨だれの下にあったから
穴があいています。
穴のあいてる石を、
「穴のあいてる石だ」としてだけ見たら、
わかんないでしょう?
雨だれが落ちてくるということと
石のあいだに起こったことが
「穴」なんです。
その石が
雨だれが落ちてこないところに置いてあったら、
穴はあかない。
人間も、そういうものなんですね。

「あれは大工の息子だよ」とか
「そういうなら自分こそ救ってみろよ」と
言わなかった人は、
言わなかった理由というのがあるんです。
石が雨に当たる場所になかったのとおなじように、
言わなかったんですよ。
関係の絶対性だけが、そこにあるんです。

しかし唯一、
そのどうしようもないことを
自分で越えられることがあります。
それは、吉本さんがいつも言う
自問自答です。

つまり、
「自分がどうなりたいのか」ということと
いまの自分がどれだけ問答しているか、
それだけが、乗り越えることの答えなんです。
どこそこに生まれた、ということについて
自分はどうしようもないんです、と
吉本さんはおっしゃいます。
でも、そこでどう生きていきたいか、
どうしたいかというところにこそ
自分の「考え」があるわけです。

その人が「いい」とか「なりたい」ことというのは
また、おなじく関係性の中で生まれてきます。
その人がやってきたり闘ってきたりしたことが
そこにも「関係の絶対性」として
反映されるわけです。

誰もが裏切ったり攻撃することはあります。
だけど、その人が
どういう人になりたかったかがあって、
その自己問答があるとしたら、
そこにほんとうのことがあるような気がします。
そういうふうに見ているつもりなんだよ、
というのが、吉本さんの考えだと思います。

「関係の絶対性」という考えを取り入れると、
すべての人は救われます。
1ミリ動かしたら、
動かした石の形も変わるし世界も変わる、
そういうところにぼくたちはいるわけです。
「運命です」という言葉で片づけるんじゃなくて
その関係の中で「どうしたいのか?」という声が
あるはずなんです。

そういうふうに世界を見る、
その恐ろしさを持った吉本さんと
ずっとつきあっていくということについて
ぼくはいつでも考えるんです。
吉本さんは、いま
いったいどういう視線で何を見てるんだろう。
それを、怒られてもいいからずっと、
できるかぎり、ぼくは見たいんです。
いつもその、吉本さんという人の幹の部分を
ぼくはいつも
見に行っているような気がします。

では、次回はこのつづきに行きましょう。
06 人間の本質的な孤独とは何か
についてお話していきたいと思います。
イエスがついに最期を迎える場面です。

(つづきます)

2010-02-08-SUN