糸井重里の 「喩としての聖書──マルコ伝」の 聞きかた、使いかた。
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『吉本隆明 五十度の講演』喩としての聖書──マルコ伝 より

第2回 デメリットを知っている強さ。
こんにちは、糸井です。
前回は、聖書を思想書として読むことについて
吉本さんが語っているところをご紹介しました。
今回は、それにつづく部分です。
講演音声のチャプターでは
03 聖書のすぐれた洞察
となっています。
時間があれば、まずはこの部分の音声を
聞いてみてください。
講演は、冒頭からでなくても、
途中からつまんで聞いてもいいと思います。
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では、今回も、ぼくなりの聞きかたを
お話ししていくことにします。
相手が自分に対して、「あいつは大工の子だ」とか「あいつはうちのインチキな亭主だ」とか、そういうふうに思っているところでは、いくら偉そうなことを言ったって通用しやしない。これは人間にとっては非常に普遍的なことです。
イエスが故郷に帰ってお説教したとき、聴衆から、
あいつは大工の子じゃないか、
偉そうなことを言ってるけど
あいつの兄弟も俺はみんな知ってるぞ、
と言われるところです。
こういうことは、ぼくらも
「あのときオシメ変えてやったのに」
「鼻垂らしたボーズが立派になった」
と言われたりして、少なからず
経験があることですよね。
親族や近しい人にとっては、
たとえ宗教のリーダーであろうとも、
ただの人に見えるのです。

こう言ってる吉本さんも、
人前で講演をしています。
ということは、無名の人ではなく
「ああ、あの人!」「あの誰かさん」
と言われる状態です。
これをお読みのみなさんも、
何かのチームのリーダーをしていたり、
係をしていたり、
いろいろな立場があると思います。

少しでも「誰かさん」になったことのある人は
このことについて
何か感じざるをえないと思います。
「誰かさん」の部分が大きければ大きいほど
その問題は大きくなっていきます。
学生さんと、
部長だったり社長だったりする人とでは
この部分の感じかたはずいぶん変わります。

家族や近くにいる人が見ているであろう自分と、
社会や聴衆の前に出ている自分と、
「どっちがほんとうなんだ?」ということについて
後ろめたく思ったりもします。
あのぐうたら亭主が、とか、わがままでしょうがないやつが、何をおもてに行ってえらそうなことを言ってるの、と、女房というのはそういう眼を持っているでしょう。近親者は必ずそういう眼を持つものなんです。
強面の男性が、プールで
子どもを浮き輪に乗っけて
「♪汽〜車、汽〜車、しゅっぽ〜しゅっぽ」
と唄っているのをぼくは見たことがあります。
ディズニーランドなどでも、
怖そうなお父さんが、子どもの前では
かわいい帽子をかぶったりしていますよね。

この姿は、見られちゃいけない。
そう思うのは「社会の私」です。
そして、逆のことも言えます。
「社会の私」を
家では見られちゃいけないのです。
家族には見せられない顔を、
社会の私はしていたりしますから。

どっちがほんとうなんだろう?
これは、ほんとうがひとつしかない
という考えかたをしていると、
説明はつかないのです。

故郷で「あれは大工の息子だ」と
言いだす人がいたら、
そっちの意見のほうが正しく聞こえます。
なぜならそれは、小さい世界で
そばで見ていた人の指摘ですから。

たくさんの人がいくら
「あの人はすごい人だ」と言っても、
近くで見ていた人に
「じゃあ、あんた、会ったことあるの?」
という対決に持ち込まれたら、
負けてしまうのです。

「ちっちゃい頃、鬼ごっこしたときに、
 あいつはこういう卑怯なことをした」
「スケベなことばかり言うやつだったよ」
なんて言われちゃうと、
どんなに人を助けるような
すばらしいことをしていたとしても、
あんがい、リアリズムのほうが勝つんです。

これは、いまの
メディアの足引っ張り合いの構造と同じです。
スキャンダリズムとは、
こういうことなんです。

社会の側でない自分が、恋人に
かわいいあだ名で呼ばれていたとして、
ひざまくらをしてもらったとして、
それが書かれて公になったとしたら、
社会の側の自分が大きければ大きいほど
おしまいです。
かなり効果的ですから、みんな
そっちの足を引っ張ろうとします。
だけど、同じ自分が、たとえば
「国のありかたを考える」なんていうのは、
両方で、成り立つことなんです。

これはきっと、昔のほうが上手だったのでしょう。
芸者さんのひざまくらで都々逸を歌ってた
維新の志士なんて、
物語でよく描かれていますけど、
あれはつまり「両方あるよね?」という話です。

いまの時代はとくに、それを許さない。
足を引っ張るネタとしか思えないのです。
男性でいえば、個人が持っているオトコ性、
おとっつぁん性だとかガキ性だとかを
表現できなくなっちゃってます。

両方あるのが人間です。
ぼくだって、小出しにしてごまかしてますよ。
(明石家)さんまさんみたいな人がいてくれて
ほんとうに助かってます(笑)。
お笑いの人たちが代わりにやってくれて、
ぼくらはその背負い賃を、
応援することでギャランティーしている、
ということもいえるでしょう。

そんなことはもうイエスの時代から、
とうにあって、ずーっとそうなんです。

これは、故郷の人や
引きずり下ろす道具にしようとする人が
悪いということではありません。
人間と社会の関係の中に
必ずあるものだということを
イエスは知っていた、
マルコ伝の作者はそう書いてるんです。
「『両方が別の人間として立っているんだ』と
 マルコ伝の作者は書いてるんですよ」と
吉本隆明が言ってるんです。

ひとりの人間の精神的領域は、そういう全部の領域をふまえて立っているということなんです。そのことを聖書は非常によく取り出している。このことは、ぼくが見事だと思えるところで、感銘が非常に大きいところです。
この先の考えとして、吉本さんの、
『共同幻想論』があるとぼくは思っています。
・個人が考える自分
・家の中での自分
・外の社会的な自分
この3つの自分がたしかに存在するのとおなじように、
あらゆるものがその3つに分けられていきます。
この講演では、マルコ伝で語っていますけれども、
『共同幻想論』では、日本の読者がわかりやすいように
『古事記』や『遠野物語』を例に引いて、
ブレないように正確に書こうとしたのです。
この講演のこの部分を聞くことは、
『共同幻想論』をある部分まで読むことと、
同じことかもしれません。

さて、マルコ伝の作者は、
このことをなぜわざわざ聖書に
書きつけたのでしょうか。
みんなも信じるといいぞ、というための本なのに、
イエスが野次を受ける場面を書いて、
後世の人もそれを削除せず、残しているんです。

それには理由があると思います。
イエスを信じていると
「あなたが信じてるものはたいしたことないぞ」
と言う人が必ず来ますよ、ということを
ここであらわしているんだと思います。
責め立てたり揶揄する人たちが立ちはだかったとき
「その人が来る」ことを
あらかじめ知っていたら、どうでしょう?
つまり、聖書のこの部分は
信者に対して、
信じるということについての
デメリットを表記しているんです。

あなたが信じているものとおなじく
あなたもすばらしい、
だけど、よく知っているような顔した人が
「そんなものすぐ破れますよ」
「君に言われなくったって、足りてますから」
と言いに、必ずやってきますよ、
そのとき、にあなたは往々にしてめげますが、
イエスだって、大工の子じゃないかと
言われていました、
でもそうじゃないでしょう?
という話ができるわけです。

この部分で描かれていることは、
マーケティングにいかせますし、
実際そうしているケースもあるでしょう。
「ほぼ日」だってそうです。
すばらしいものをコンテンツとして伝える場合、
「すばらしいけど、こういう損はあるかもしれません」
というところまでをひとつの内容として
伝えるようにしたいと思っています。

このことを書くという作者の意図があり、
のちにこれを福音書として伝えた人の意図がある。
これは宗教として、無限の強さがあるわけです。

これで2回目が終わりました。
次回は
04 聖書の思想のいちばん大切なこと
についてお話します。

(金曜日に、つづきます)

2010-02-03-WED