POMPEII
千体のお気楽な骸骨たち。
田中靖夫さんの手が産み出した天然。

第8回 はじめてのひと、特にどーぞ。

この骸骨のコーナー、
はじめて見るひともいるかな。
今回はそんなひとにうってつけ。

今までは田中靖夫さんの
つくったものからいろいろきいてたけど、
ちょっと今まで何していらしたのかもきいたのだ。
今日から数回インタビューが続きます。

骸骨ばっかり描いたり、ゴキブリつくったり、
このおっさん、何なんだ!と思ってるひと、
あなたはとても正しいぞ。
こないだの日曜日は、こんな現場(↓)。



あ、でも、他の仕事もしてたりして、
例えば本の装丁では天使なんて描いたりもする。



でも量多いな、これ。どうしてそうなのか?
インタビューがそれを解き明かすわけじゃないけど、
とりあえず、どーぞ。



----そもそも、もともと画家志望でしたか。

もともとは心情的には、親父が建築家だったから、
できることなら建築家になりたかったんですよ。
でも物理とか数学もできなくちゃいけないでしょ?
とても無理だから、とあきらめて、
インテリアデザインを目指しました。
ただ、やってみてインテリアデザインは
ちょっと軟派な感じがしちゃったんで、
それで写真の専攻に移りました。
で、一年留年しちゃって、それから就職するのですが。
昔の、ぼくのときの昭和40年頃の就職っていうのは
だいたい一度就職すると勤めあげるというか、
だから自分にあった就職をするというよりは
出会いがしらで一生つとめあげるという時代でした。
1番最初に入った会社でずっと定年までいるんだと
ぼくなんかも、疑わなかったですよね、その当時は。
転職っていうのは人間としてつとめあがんなかった、
というようなもんだったから。

それで、何かずるずるずるーとつとめていました。
自動車会社に就職するときは
工場なんかの写真を撮れるという、
インダストリアルフォトでいけるかな、というのが
なんかちょっとあったんだよね、機械が火花吹いてる、
ああいうのを写すチャンスがあるんじゃないか、と。
でも、配属されたらいきなりデザイン課で。
絵を描く訓練とか模型をつくる訓練とかを受けて、
結局15、6年経ったら、
「一生に一度の人生なんだから
 じぶんの好きな仕事をやっていいんだ」
という年になってやめたっていうか。

粘土で模型をつくったり
いろいろな材料で模型つくるのをずっとやってる職場で
そういうのはもともと子供の頃から好きだったから、
デザインの仕事そのものは好きでした。

----デザインはどういうものをやっていましたか。

車の外形と内装のデザインです。
トヨタの子会社だったから、100%全部トヨタの仕事。
細かいコンセプトやエンジンのおきかたとか
いわゆるデザインのおおもとっていうのは、
製品企画室というところでほとんどぜんぶ
すごく細かく決められていて、
こちらでやるものというのはだいたい
セリカにコロナのドアをくっつけて
新しい車をつくるとか、そういう仕事が多かった。
もう80%くらいがそういう仕事だったんじゃないかな。
それで審査というかコンペがあるんだけど、
そうするとだいたいお金との兼ね合いもあるじゃない?
お金はあんまりかからないんだけど、
あんまり変わりばえしない、というのがひとつあって
お金はすごいかかるけどすごい変わり映えするものも、
お金はそこそこかかってちょっと変わりばえするのも、
それぞれあるんだけど、審査されると、だいたい
そのまんなかあたりの
「お金はそこそこ、変わりばえもちょっと」
というのになるんですよね。
そのうち慣れてコンペの結果が読めてきちゃうんです。
ただ、もう両極のまんなかの案が通るっていうのが
わかっていても両方の案を出さなければいけないとか、
そういう無駄な仕事がものすごく多かったですね。
そういうことって多いよ、会社って。
それでやんなっちゃうっていうか。


さっきの天使は、橋本治さんの本の装丁だよ


会社のときって仕事がない時間ってすごくあった。
終わって時間をつぶすというか、
いかに仕事をつくるかっていうような。
役所につとめているひととか
普通の会社につとめているひともそうだけど、
全員が全員、自分が向いている仕事をやっているとか
その仕事がどうしても必要っていうのとかではなくて、
たまたまそこにいるひとって多かったですよね。
一応会社にはつとめているんだけど、
八割くらいはたぶんそういう感じなんじゃないかなあ。


自分の仕事は他にあるんじゃないかな、
と思いつつ今の仕事しているひと、多いよ。
少なくとも会社にいた頃のぼくも、
自分で仕事を作り出すことはできなかったから、
この仕事が終わっちゃうと仕事がないときもあった。
そうすると手元にある仕事を時間かけてやったり。
正直に言って、きちっと残業で働いたら
時間で給料がもらえたわけじゃない?
残業しないとお金もらえないから、
楽に仕事をやるということじゃなくても、
今ある仕事をできるだけ丁寧にやる、
ということは現実にありましたね。

----会社をやめたのは仕事が嫌になったからですか。

ぼくは本筋の会社の仕事じゃないところで
頑張っていたから、あの、結局は絵を描いたり、
ええと、結果的にはやめているけど、そういうのを
15年くらいずうっとやっていたからね。会社のなかで。
絵のほうへの興味っていうか。



装丁では、天使案以外にこんなのも

----デザイン課だからそういうのができたのかな?

直接の上司が、ぼくよりももっと
そういう気持ちの強いひとでしたから。
亀山という課長だったんだけど、
そのひとが油絵を描きたいばかりに・・・。
芸大を出ていて、油絵がすごく上手なひとなんです。
デザインなんかやるよりも普通の絵を描いて
絵描きになっちゃったというひとだからね。
車のプレゼンテーションの絵に、
無理やり油絵を描いたりするの。
ふんだんに絵の具とか筆とか買ってくれたから、
ぼくたちはそれをたっぷり使って。

オイルショックというのがあって(1973年)、
そのときは「今後車のモデルチェンジはないから、
デザイナーは自分で新しい仕事をみつけなさい」
と言われたときもあったりしていたので、
こっちもいわゆる仕事ではないような
空いてる時間で何かいろいろやってました。
会社の内部からも見られないように、
ここは秘密だって言って部屋閉めていまして。
それはそれで、みんなで遊んでいたというか。

----写真にすすんでたらそういうの、なかったかも?

そういう意味ではすごい職場だったんですよね。
ぼくが会社に入ったときには、
もうそういう雰囲気がいろんなかたちでありまして。

----好きなことをできるっていう雰囲気?

好きなことっていうよりも、
デザインの基本は絵を描くことだっていう雰囲気かな。
課のなかには何か方針というかいくつかの柱があって、
偉いひと、例えば顧問だったひとや直接の上司が、
絵の好きなやつをすごくかわいがってくれた。
そういうのが。
だからあの、結局いろいろなことを大目に見てくれて、
「おまえは絵が好きだからオッケー」っていう感じ。
10年以上そういう雰囲気だったなあ。

----会社だけど会社じゃない、みたいな。

研究所みたいなものですね。
そのかわり、トヨタの下請なんです。
だからプロジェクトがはじまるとトヨタに呼ばれて、
半年とか一年とかトヨタの独身寮に住んで、
プロジェクトのメンバーのなかに入っていました。

----会社でデザインの自信作をつくるというよりは
  好きな方向の絵を描くのが中心だったのですか。

半々だろうね。やっぱり会社だから、
自分の技をみがくだけっていうのはうしろめたいし。
半分は会社だから、会社の組織のなかには
どうしても新しいひとがはいってくるから、
努力しないといけない、みたいなのがあるけど、
でもぼくは結局全然努力できなかったっていうか。

----趣味で描くものは独りでつくっていたのですか、
  それともみんなで見せあっていたのですか。

一週間に一度、半日くらいかけて、デザイン科のなかで
デッサンとか絵を描くあったの。講師を外から呼んで
「その時には仕事やっちゃいけない」っていって、
全員が仕事をやめてイーゼル持ちだしてデッサンした。
それで品評会とか。だから、すごい楽しかったです。
今はないだろうと思うけどね、そんなの。
基本的に、だからあの、今みたいに
個人がどれくらい売上をあげたかとか
いろいろなことをやるところじゃなくて、
何かレオナルド・ダ・ヴィンチを育てようというような
会社だったからね。だから企業のなかでもひとが
いかに絵を描くのをたのしむか、というか、
絵を描いたり、模型つくったりもしてた、自由に。
仕事とは関係なく。



靖夫さんの装丁案はこの3つなのだ

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自由な職場にいたけど、
そのあとどーしたか、とか、
個人的に今どう思ってるの?とかは
次回ぶんにつづく。

2000-03-02-WED

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