矢野さんの訳した

の販売窓口を
「ほぼ日」につくりました。

リトル・ドッグ・プレス
大泉有紀さんから矢野顕子さんへの手紙。



矢野顕子さま

前略ごめんください。
はじめてお便りさしあげます。
私は出版社リトル・ドッグ・プレスの大泉有紀と申します。

今夏、小社で刊行を予定している
『FIREBOAT』by Maira Kalman の日本語版翻訳を、
矢野さんに是非お願いいたしたく、
このお手紙を書いております。

タイトルにあるように、この絵本は、
ニューヨークの実在の消防艇が主人公です。
1930年代、ニューヨークが
どんどん成長していった時代にうまれた消防艇ハーヴィ。
数々の消防活動に従事し、大きな火事も消し、
さまざまな活躍を経て、
ハーヴィは老朽化し、役目を終え引退します。
数年ののち解体される運命でしたが、
「この愛すべき消防艇を私たちで残そう」
という有志の声が結集し、
船はスクラップをどうにか免れ、
彼ら有志グループの手に渡ることになりました。
そして彼らによってハーヴィは少しずつ、
壊れている箇所を直され禿げた部分を塗り替えられ、
再び湾に出ました。
けれど誰もが思っていました、
「ハーヴィが消防艇として活躍することは、もうない」と。

しかし2001年9月11日、
ニューヨークにおそろしい災害が襲ったとき、
ハーヴィは再びその力を必要とされることになったのです。

はじめてこの絵本を手に取ったとき、どういったらいいか、
言葉を失う程、私は心をうたれました。
9.11の「テロ」が骨子にはなっていますが、
そのこと自体がテーマではない。
ニューヨークという街と、その街に暮らす
ふつうの、本当にごくふつうの人たち、
彼らが街と人とをふかく愛する心、
それがテーマなのだと思いました。
ニューヨークがむくむくと繁栄していった
わくわくするような楽しい時代を描きつつ、
その時代から現在まで、街を守るために働いてきた、
一隻の老消防艇を敬愛し続ける人々について、
心をこめて描写している前半部分。
突如起こった本当に恐るべき災害
(といってしまっては語弊があるかも知れないけれど)
を前に、
むやみに恐れや憎しみや無力感に取り巻かれることなく、
今、自分たちのできる限りのことをしよう! 
と、決意する場面へと進む後半。
ふつうの市民たち、ふつうの人々が、
どんな困難にあっても、怖れず、柔らかな心をもって、
次の日も、次の次の日も暮らす、暮らしていくということ。
描写はとてもたんたんとしていますが、
絵本全体から、作者の溢れんばかりの
愛と祈りとを感じ取りました。
アメリカ人のナショナリズムを高揚させる、
単純な愛国心とかいったものは全く感じませんでした。
そして次の瞬間には自分のところで翻訳出版しよう!
と決意したのです。
アメリカでの刊行から間もない昨年の春先、
4月上旬のことです。

しかし周囲からは、予想もしない反応が返ってきました。
翻訳絵本を小社が出版するのは初めてなので、
その筋のある高名な方(60代男性)に相談すると、
「いま、この泥沼の国際情勢で、
 なぜこんな親米的な絵本を出すのか? 
 この本を日本の読者に提出する意味が
 私には全く理解できかねる」
と苦々しく言われてしまいました。
一緒に働いているただひとりのスタッフ、
夫なのですが、からも、はじめは大反対されました──
彼いわく、
「アメリカ人の愛国心を描いた絵本を、
 よりによってウチが出す必要はない」と。
(もちろんミーティングを重ねた結果、
 夫も今ではこの絵本出版に向けて
 積極的に取り組んでくれています)

そこで初めて私は、この絵本が表現しているテーマを
ストレートに受け取ってもらうには、
かなりの困難が伴うことに気がつかされたのです。
そしてそれを日本の読者にうまく提示するには、
(もちろんどんな翻訳書もそうなのですが)
日本語へ翻訳して下さる方の「ことば」がカギだ、と。
そこでまっ先に思いついたのが、矢野さんのお名前でした。

矢野さんの作られる、美しくキュートで、
凛、とした旋律もさることながら、
私は、矢野さんが紡がれてきた愛情たっぷりの
「詩」たちがほんとうに大好きです。
最新作の『ピヤノアキコ。』に、
<PRAYER>が入っていて凄く嬉しかった。
この曲を『SUPER FOLK SONG』で初めて聴いたとき、
突然、どっと涙が溢れてきたことがありました。
その頃私は、付き合っていた人にそっぽむかれていて、
とっても苦しかったのですが、
この曲を聴いてひとしきり涙を流したら、
なんだかすごくすっきりして
「彼が私のことを嫌いになっても、
 私が彼を好きで大事に思うことに変わりない、
 それだけでいいんだ」と、
気持ちがすうっと落ち着いたのです。
今回『ピヤノアキコ。』でこの曲と再会し、
あの日の白ワインのような薄い黄色い夕焼けを
久しぶりに思い出しました。
他にも矢野さんの歌からもらった
様々な楽しい思い出はたくさんあって、
とても書ききれません。
ふと街のレコード屋やラジオから流れてくる
矢野さんの歌、声に救われている人は、
ここで私が改めていうまでもなく、
たくさんたくさんいらっしゃることと思います。

もちろん歌の内容や意味だけではなくて、
歌詞の持つリズムと、
ことばがメロディーにのせられていくときの、
矢野さんならではの研ぎすまされたセンス、
私が矢野さんの「ことば+うた」に魅入られている
理由のひとつです。
絵本のなかの僅かな、必要最小限の「ことば」に、
単なる英語→日本語への移し替え以上のリズムを、
矢野さんにこそ作っていただけるのではないかと思いました。

「愛」について、そして
「ごはんを食べることや、愛する人や犬や猫や
 車や建物やそのほかたくさんのものたちとともに、
 希望や幸せを願いながら、その日その日を暮らすこと」
について、
ほかのどなたより美しくリズミカルで
ハッピーなことば(日本語)を紡がれる
詩人としての矢野顕子さん、
いま現在、作者マイラ・カルマンと同じ
ニューヨークという街にお住まいの矢野顕子さん、
その街で、優れたミュージシャンの方たちとともに、
日々切磋琢磨しながら音楽を製作されている矢野顕子さん、
(そして、9.11をニューヨーク市民として
 体験された矢野顕子さん、)に、是非、
この『FIREBOAT』を読んでいただき、
そして日本語へ翻訳していただきたい、
もしもそれがかなったら、喜びは版元である
私ひとりのものではまったくなく、
たくさんの日本の読者に、
マイラ・カルマンさんと矢野顕子さんの
素晴らしいコラボレーションを
味わっていただけるのではないか、と思っております。

ここで作者マイラ・カルマンについて
少し御紹介いたします。
彼女はニューヨーク在住のイラストレーター
/アートディレクターです。
これまでに数々の絵本作品を出版し、
そのうち何冊かは日本でも翻訳紹介されています。
たとえば、1989年の
『おこしておきたい、おそくまで』(神宮輝夫訳)。
文章をデヴィット・バーンが担当した、
ユニークで可愛らしい一冊です。
産まれたばかりの赤ちゃんを迎える子どもたちの、
おっかなびっくりだけど飛び跳ねたいぐらいに
嬉しいきもちを、
弾けるような絵柄で描いている楽しい絵本です。
最近ではファッションブランド
「ケイト・スペード」の新作バッグに
イラストレーションを描くなど
多彩な活動を行っており、
日本でも彼女のファンが増えています。
以下のページで彼女について触れています。
http://www.fashion-j.com/r/2003/113.html

ちなみに本作品『FIREBOAT』は
2003年度のボストン・グローブ/ホーンブック賞を
受賞しています。
http://www.hbook.com/bghb03_speeches.shtml#nonfiction
(ノンフィクション部門)
上記のページには、受賞に寄せて、
この絵本製作についての作者自身の印象的なスピーチが
紹介されています。

現在ニューアルバムの製作直前というお話を伺いました。
ほかライブ、取材など多忙を極めていらっしゃる矢野さんに、
以上のお願いをするにあたって、何度も迷いましたが、
やはり矢野さんへご依頼したいという気持ちが揺らがず、
突然のお手紙となりました。
失礼にあたりましたら、何とぞご容赦くださいませ。
『FIREBOAT』をお手元にお送りいたしますので
まずはぜひ作品をお手にとって見ていただき、
御検討くだされば望外の喜びです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

長文を読んでいただき、どうもありがとうございました。

2004年5月7日
合資会社リトル・ドッグ・プレス
編集担当 大泉有紀拝

追伸 
J-WAVEの「ムーンライトコンパス」
矢野さんの優しい声がとても耳に心地よく、
毎晩11時50分を心待ちにしています。
お忙しい毎日、くれぐれもお身体御自愛くださいませ。

2004-12-02-THU

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