山元町と手をつなぐ。

動く山元町

避難所に向かって自転車を漕ぐ
山田春香さんの足を急がせたのは、
消防団の「津波が常磐線を越えました」の警告でした。

糸井重里が山元町役場の避難所におじゃました際、
山元町の齋藤俊夫町長にも
ごあいさつをさせていただきました。
山田さんがその「警告」の話をしたとき、
町長は思わず
「その消防団はどちらの方向から来ましたか?」
と声を出されました。

「どっちの方向でした?
 避難指示を出したのは
 消防署の広報、消防団の広報、町の広報が
 あったのですが‥‥
 そうですか、消防団でしたか‥‥」

町長の家も海側にあり、津波に流されました。
(顔のおひげも、車上生活をしているあいだに
 のびてしまったのだそうです)

「海岸線から1kmの範囲は、
 家が500戸近く流されてしまいました。
 私は家を失っただけですが、
 前の家のばっちゃん、その前の家のご夫婦、
 のきなみ、たいへんな犠牲になってしまいました。
 役場は、避難指示の広報パトロールで
 4名の若い職員をなくしました。
 消防団も12名、亡くなりました。
 民生委員の方々も犠牲になりました。
 家族を亡くした職員もいますが、
 休まないでがんばってくれていて、
 頭が下がる思いです」

山元町役場の駐車場には
そのときの消防車が停まっています。

手前の2台に
どんな波が来たのでしょうか。
想像ができません。

町長はこう続けました。

「今日現在、661名の方が亡くなって、
 いぜんとして89名が行方不明です。
 小さい町にしては
 亡くなった方、行方不明者の数が多い。
 また、町の面積に対して
 津波が入った区域が広すぎます。

 これからの町づくりは、
 非常に大変だと思っています。

 いま、海岸がほとんど無堤防化していて、
 高潮が来ただけで
 町のいろんなところが浸水してしまいます。
 そのため、現在は町の海側の大部分が
 避難指示区域になっています。
 基本的には許可なく立ち入りできませんし、
 もちろん、居住もできません。
 しかし、床上浸水で済んだところもありまして、
 そこの地区の方々は自己責任で
 住んでおられる、という現実がございます」

じっさい、案内をしてくれた
山田春香さんも渋谷麻美さんも
ご家族のうちの数名は
「半壊」の家に戻って住んでいらっしゃいました。

渋谷さんとお母さんは
いま、町役場のグラウンドの
テントに住んでいます。



しかし、渋谷さんのおじいさんは、
家を離れたくない、と
ディーゼル車で乗り入れ、車中で寝起きしています。

これまで代々、
「畑あっての家」「海あっての家」で
ここに住んできた人たち。
立ち入り禁止区域になっていても
車に住みながらこっそり入っていって
自分の家を自分で建て直しはじめている人も
いるそうです。

山田さんのおうちも、
1階にあった、浸水した畳を
外に出していらっしゃいました。


強い津波による侵食と陥没で、
海岸線は姿を変えました。
防波堤のあった場所がえぐられて
入江になってしまっています。
町長の机の上には、
大きな衛星写真が置かれていました。

「山元町には3大ブランドがありまして、
 ここにりんご、ここにいちご、
 ここにはホッキ貝が‥‥ほんとうにいいホッキが
 ありましてね、ホッキめしの店もあったりして、
 たいへん好評なんです。
 
 海風がほどよく当たる関係でしょうか、
 この町のりんごはおいしくて
 市場に出ないんです。
 いつも、町の人と、口コミと、インターネットで
 全部終わってしまいます。

 3大ブランドのうち、
 そのりんごだけが、残りました」


災害臨時エフエム放送局
「りんご ラジオ」の高橋厚さんは
山元町のりんごが大好きな方のおひとりです。

「ここのりんごを食べたら、
 りんごってこんなにおいしかったんだ
 と思うくらいですよ。ぼくはびっくりしました」

高橋さんは、もと東北放送のアナウンサー。
東京で生まれ育ち、仙台に勤務、
退職後、山元町の里山の美しさに惹かれ、
定住することになったのだそうです。

「すばらしい里山があって、海があって、
 ひと目で気に入ってしまいました。
 いまは林の中を自分で開拓して住んでます(笑)。
 いろんなものが出てきますよ、
 イノシシ、タヌキ、キツネ、ウサギ、スズメバチ。
 いまはカタクリの花がきれいに咲いていて、
 四季折々の変化がたのしめる場所です。
 星空も、とてもきれいなところです。

 今日のりんごラジオで、糸井さんが
 今回の訪問の動機を、
 “亡くなった方のことを思って”と
 おっしゃいました。
 いろんな方があの放送席にお見えになりましたが、
 糸井さんのようなお話をされたのははじめてでした。

 いま実際に山元に来られて、
 改めて感じられていることを
 うかがっていいでしょうか」

糸井重里はこう答えました。

「こうして来て、ここに立ってみると、
 町がちゃんと機能してるということが、
 いきいきと伝わってきました。
 
 決して、ただ悲しいという場所じゃなくて、
 なんていうんだろう‥‥みなさんはやっぱり
 お仕事をなさってるじゃないですか。

 みなさんが、生々しく
 仕事をしていらっしゃることが、
 ぼくたちにドーンとぶつかってきて、
 うれしかったです。

 町を車で走っていて、
 少しだけ、鉄道のレールが
 きれいになってるところを見ました。
 あれも、誰かがやっていることです。

 やることがある、仕事がある、
 そういうことを学ぶ場所としても、
 外側から来る人間が、これからもっと
 頭を使えるだろうと思います。

 山元町は、これから
 変わるところは変わるでしょうし、
 変えたくないところは変えないのでしょう。
 “変えたくない”というのは、
 いったいどういうところなのかを
 本気で考えていくわけです。
 それはやっぱり、いまの日本では
 どこに住んでる人だって、したことはありません。
 そういうことをやらざるをえない人たちが、
 先に強くなっていく。
 それをぼくらとしては学びたいとも思っています。

 山元町を訪れることができて、
 この町全体がひとつの生きものとして
 立ち上がる様子を感じました。
 まだ、怪我や病気に
 悩んでる生きものかもしれません。
 しかし、亡くなった人びとを含めた、
 巨大な力のある生きものだと思います。
 きっと立ち上がって暴れだすと思いますので、
 楽しみに見させてください。
 ぼくらもずっと見てますし、応援します」

山元町の役場を歩いていると、
「ほぼ日手帳」を手に
近づいてきてくださった方がいらっしゃいました。

「手帳は、手もとに残りましたよ!」
声をかけてくださって
とても、うれしかったです。


「ほぼ日見てます、サインをお願いします。
 女房の分もお願いします」
と声をかけてくださった方もいました。

家がひどい倒壊をして、
その片づけを毎日がんばっている人なんですよ、と
あとで役場の方が教えてくださいました。

避難所の前には、
大きな花をつけた桜が何本もあって、
そこではのど自慢大会が開かれていました。


渋谷さんたちが住むテントの前には
犬が一匹、おとなしく待っていました。

山元町の春はこれから
夏に向かって、そして、秋が来ます。

なにができるかを
ゆっくりと探しながら、
また近いうちに、山元町を訪れたいと思います。
それでは、また。

2011-05-30-MON
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