『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

60年ぶりのスケッチ


今年2月、
私はニューオーリンズを初めて訪れた。
ちょうどマルディ・グラと
呼ばれる祭りの最中で、
バーボンストリートでは
夜な夜な乱痴気騒ぎが続いていた。
それとは対象的に
昼間の街はおだやかな表情を見せた。
雄大なミシシッピー河を
蒸気船が汽笛を鳴らしながら
ゆっくりと進み、
路面電車が街を走りぬけ、
公園では
ストリートミュージシャンたちが
ジャズを奏でる。
バルコニーが特徴的な
フランス風の家々のそばを、
馬車がパカパカと駆け抜ける。
なつかしいアナログの音と香りが
一面に広がっていた。

私は「ディープサウス」という言葉が好きだ。
ジョージア州、アラバマ州、ミシシッピー州、
ルイジアナ州など、
アメリカ深南部とも言うべき地域をこう呼ぶ。
アメリカ南部の、特に田舎町を歩くと
「ディープ」の意味が実感できるように思える。
なぜだかわからない。
人間が決して逃れることのできない孤独や悲しみ、
さらには狂気、畏れのようなものを
否が応でも感じてしまうのだ。

ニューオーリンズは、
そのディープサウスの代表的な街だ。
だが残念ながら元のニューオーリンズは、
もはや存在しない。
ハリケーン・カトリーナは
この「ディープサウス」の街を
まったく別の姿にしてしまった。
街だけではない。
この街に住む人々の人生をも呑み込んだ。

私がニューオーリンズを訪ねたのは、
ひとりの男性に会うためだった。
テッド・パブロヴィッチさん、81歳。
ドアをノックすると、
彼はこぼれるような笑顔で私を迎えてくれた。
小さな平屋の一軒家で、
リビングにはソファーと
古ぼけたテレビが置いてあった。
私はソファーに腰掛け、
パブロヴィッチさんへの届け物を
テーブルに置いた。
持ってきたのは1本のVHSテープだった。
彼は、待ちわびたようにテープを見つめた。

パブロイヴィッチさんは
1939年に16歳で出征、
フィリピンで軍に従事している際、
胸を打ち抜かれ
死亡していた日本兵と遭遇する。
地図や日本軍の重要な書類はないか
その日本兵の持ち物を探っていたとき、
一冊のスケッチブックと写真に目が留まった。
日本兵が描いたスケッチの
あまりのすばらしさから
敵だった日本兵に
初めて人間的な感情を見出したという。
日本兵は戦場で、妻や幼い子供らを
表情豊かに何枚も描いていた。

「彼は私と同じようなものだった。
 彼はたまたま日本人で、
 その結果亡くなってしまった。
 彼が生きているうちに会えるものなら、
 会いたかった」
パブロヴィッチさんは
スケッチブックを捨てられず、
戦争が終わると
ニューオーリンズの自宅に持ち帰った。
それからおよそ60年。
スケッチブックは
彼の屋根裏部屋に置かれたまま、
忘れ去られようとしていた。

ところが
あることがきっかけで
スケッチブックは眠りから覚める。
パブロヴィッチさんは
長年連れ添った妻を亡くし、
自分も人生の店じまいに向けて
持ち物を整理しておこうと思い立つ。
家中をひっくり返して資料や写真を
片付けているときに、
スケッチブックと再会したのだ。
彼はふと思った。
死ぬ前に、
ひとついいことをしてみようかと。

パブロヴィッチさんは、去年5月、
スケッチと写真を
ニューオーリンズの日本領事館に持ち込み、
遺族に返してあげてほしいと依頼した。
写真やスケッチブックに記してあった
名前などを手がかりに
厚生労働省が調査を行い、
7ヶ月後、日本兵の娘が
広島市に住んでいることが判明する。
娘の名前は、横川美根子さん。
父である横川茂さんが出征当時、
まだ生後5ヶ月だった。
スケッチを描いた茂さんは、
織物などの図案家だった。
茂さんは結婚して2年ほどで招集を受け、
歩兵37連帯の一員として戦場に赴いた。
そして4年後、
家族のもとに戦死の知らせが届く。
遺骨もなく、
戦死の事実が書かれた紙が一枚だけだった。

今年1月、広島県庁の職員が
娘の美根子さんを訪ねた。
スケッチブックを手渡されると、
彼女は一枚一枚ゆっくりと見つめた。
水彩ペンで書かれた
赤ちゃんのスケッチのそばには
「美根子 チチヲマツ」と
記されていた。

「ただびっくりしました。
 ただただびっくりして驚いて。
 感情が表にうまいこと出んかったですね」
63歳になる美根子さん自身は、
父親の記憶はないという。
「悪いんですけど、まったくないです。
 写真と、母から聞かされた言葉と、
 葉書だけです。母親は父のことを、
 夢見る夢男ちゃんだって言ってました。
 いつもふわーっとのんびりして」
美根子さんの母親は脳梗塞を患い
スケッチを見てもわからないだろうという。
驚きのあまり
感情が表に出ないと話した美根子さんも、
スケッチをめくるうち時に涙を見せた。

「いつも(父は)友達に言っていたそうです。
 これわしの子だって。
 そういうの聞いていたから、
 自分の生きてくるのに(父を)辱めないように、
 一生懸命私も生きてきたつもりですけどね」
そして美根子さんは
パブロヴィッチさんにメッセージを残した。
「ありがとうございました。
 長い間とってもらっていて感謝でいっぱいです」
美根子さんは、
生後5ヶ月の自分が描かれたスケッチを、
顔のそばにかざして続けた。

「涙でうまくしゃべれませんけど、
 こんな顔、大きくなったら
 こんな顔になりましたけど、
 同じように見えますでしょうか。
 大切にしてなおしてもらって
 ありがとうございました。
 私が亡くなるときに、
 一緒に天国に持っていってやります。
 ありがとうございました」

私がニューオーリンズの
パブロヴィッチさん宅を訪ねたのは、
美根子さんのビデオメッセージを
届けるためだった。
そこにはメッセージだけでなく、
スケッチを見つめる
彼女の表情も収められていた。

デッキにカセットテープを入れる。
映像が浮かび上がる。
パブロヴィッチさんは食い入るように
画面に向かった。
スケッチが60年ぶりに届けられ、
美根子さんが涙ぐむ姿を見ると、
パブロヴィッチさんの目にも
たちまち涙があふれた。

「私はとても幸せです。
 私が望んでいたすべて、
 いやそれ以上でしょう。
 彼女が生きているうちに、
 お父さんの遺品を届けてあげたかったんです。
 彼女と私が亡くなる前に。
 いまこの映像を見て、
 どれほど私が感動しているか
 言葉にできません。
 彼女が喜んでくれてとてもうれしい。
 彼女は私に礼を言う必要なんてありません。
 彼女のこうした姿を
 見るだけで幸せだからです。
 それで十分です。
 それで、もう十分です」

パブロヴィッチさんは、
声を詰まらせながら続けた。
「人生には、誰も想像できないことがあるんですね。
 美根子さんのお父さんと私は
 まったく別のところに居たのに、
 いまこうして結びつけられているのです。
 美根子さんとも会ったこともないのに、
 画面を見ていると、
 つながっているのを感じます」

部屋には、53年間連れ添い
3年前になくなった
奥さんの写真も飾ってあった。
パブロヴィッチさんは週一度の墓参りを
欠かすことはないという。
「私は81歳です。
 いろいろなことを経験し見てきましたが、
 これほどの喜びはありません。
 こんなすごいことはね。
 もう思い残すことはありません。
 あとは天国に行った妻のところに行くだけです」

パブロヴィッチさんは
穏やかな表情で話し続けた。
取材を終え別れを告げたあとも、
彼は玄関の外でいつまでも手を振っていた。

あの日から7ヶ月。
この2週間、
私のいるニューヨーク支局の主な仕事は
ハリケーンのニュースだった。
現場に記者やカメラマンを派遣し、
情報や映像の整理から、
中継やヘリコプター、宿の手配、
番組への売込みなど、
司令塔としての仕事と
過酷な現場のバックアップの役割に追われた。
すさまじい被害の実態を見ながら、
パブロヴィッチさんのことが
時に頭に浮かんだ。
果たしてちゃんと避難できただろうか、
そして自宅はどうなったのだろう。
パブロヴィッチさんの家は
被害の最も大きな場所のひとつにあった。

60年ぶりに返却されたスケッチ。
そこには偶然では語りきれない物語が
横たわっている。

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2005-09-14-WED

TANUKI
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