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| 『ぼくは見ておこう』 松原耕二の、 ライフ・ライブラリー。 |
世界の他の土地 革命という甘美な響きと端正な顔立ち、 夭折したチェ・ゲバラは 『伝説』になる条件を これ以上ないほど満たしている。 私がキューバを訪ねた際も、 街のあちこちでゲバラの肖像を 見ることができた。 革命広場にある巨大なゲバラの顔。 道路わきに立ち並ぶ、 政治スローガンが書かれた看板にも ゲバラの顔が描かれ、 『伝説は生きている』という文字が 記されている。 ホテルの売店や、観光用の土産物屋には、 ゲバラの絵はがきやTシャツが溢れていた。 子供たちは学校でゲバラを学び、 ピオネールと呼ばれる キューバのボーイスカウトは 「我々はゲバラのようになるべきだ」 という合言葉を唱えるという。 ゲバラがロマン溢れる『伝説』として 生き続けている様を、 目の当たりにすればするほど、 私は複雑な思いを抱くことになった。 キューバをあとにしてからの ゲバラの最後の日々は、 ロマンとはほど遠いものだった。 と言うよりむしろ、 キューバに帰る道を閉ざされた 孤独で残酷な時間だった。 ニューヨークに赴任して 私が最初に劇場で観た映画が、 ゲバラに関するものだった。 『モーターサイクル・ダイアリーズ』、 ゲバラがゲバラになるきっかけとなった、 若き日の旅を描いた作品だ。 23歳の医学生だったゲバラは、 1952年、友人のアルベルト・グラナードと おんぼろバイクで南米を回る旅にでる。 アルゼンチンから、アンデス山脈を抜け、 チリの海岸線を北上し、 ベネズエラのカラカスを目指すという 大胆なものだった。 持病のひどい喘息に苦しみながらも、 ゲバラは途中ガールフレンドと再会したり、 人妻に誘われて騒動に巻き込まれたりと、 血気盛んな青年らしい旅を続ける。 ところが次第に、 旅は別の色彩を帯びてくる。 ゲバラは多くの貧しい人々と出会い、 搾取する大資本を目の当たりにし、 不条理と強い怒りを感じる。 さらにマチュピチュで 堂々たるインカ遺跡に足を踏み入れ、 失われし南米の文明に触れていった。 ゲバラのふたつの台詞が印象的だ。 ひとつは、マチュピチュで遺跡をみたあと、 旅の相棒であるアルベルトが冗談めかして 「インディオ党を結成し、 選挙によってインディアン革命を起こす」と 口にした時、ゲバラはこう答えている。 「銃をとらない革命? おまえ、頭がおかしいよ」 アルベルトが旅の日記として後に出版した本 『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』によると、 このときアルベルトは、その10年前に ゲバラ少年が言った言葉を思い出している。 ゲバラより6歳年上のアルベルトが、 反政府デモに参加して警察に拘束されたときのことだ。 面会に来たゲバラたちに対して、アルベルトが 高校生を組織して釈放するよう訴えろと 言ったところ、ゲバラ少年はこう断っている。 「武装しないで向かって行けば、 叩きのめされるだろう? 冗談じゃないよ。 俺は銃なしではご免だ」 もうひとつは、ペルーにあるアマゾン奥地の ハンセン病の隔離医療施設で働いたときの、 ゲバラの言葉だ。ゲバラとアルベルトは、 患者たちと心のつながりを深めて行く。 この地でゲバラは24歳の誕生日を迎え、 そのパーティーのあいさつで 関係者に礼を述べたうえで、こう語る。 「この旅を通してより強く確信しました。 南米が、みせかけだけの国というもので 分けられていることは、 意味のないことだと思います。 我々は、メキシコからマゼラン海峡にかけて 民族学史的にも明らかに似通っている ひとつの混血民族です。 ちっぽけな地方主義の重荷など捨てて、 ペルー、そしてひとつの南米に乾杯しましょう!」 (ゲバラ著『The Motorcycle Diaries』) 同じ24歳のころ、 フィデル・カストロは何をしていたのか。 南米という意識に目覚めたゲバラに対して、 カストロはキューバという国の中で 強烈な政治意識を持っていた。 農場主の息子として生まれたカストロは、 大学に入ると政治意識に目覚め、 持ち前の行動力と自己顕示欲で、 活動家のリーダー格になっていく。 当時のキューバはアメリカの 半植民地と言ってもいい状況で、 カストロは反政府活動を強めていった。 このためカストロは命を狙われ、 これを逃れるためにドミニカに 義勇軍の兵士として参加、 さらにコロンビアの反政府運動にも身を投じて 一躍キューバで英雄として名をあげる。 キャンパスで彼の演説を聞いて 恋をしたという金持ちの娘と結婚、 3ヶ月アメリカに新婚旅行に出かけた。 その後、ハバナ大学法学部を卒業して 弁護士事務所を開き、カストロは 下院議員に立候補する道を探り始めていた。 これがカストロの24歳だった。 旅を通じて人々の貧しい生活を見て怒り、 自分の祖国アルゼンチンに囚われず 南米という広い意識に目覚めたゲバラに対して、 カストロはキューバという自分の国をいかに変え、 そのためにどうしたら権力を得ることができるのかを、 具体的に考え行動していた。 24歳のその相違は、 その後ふたりを結び合わせ、 さらには決別させることになる。 ふたりが初めて出会ったのは、 1955年の夏だった。 メキシコに亡命していたカストロと話したゲバラは (カストロがほとんど話していたというが)、 すぐにキューバの政権を倒す運動に 身を投じることを決める。 当時、ゲバラは、 最初の妻になるイルダとつきあっていた。 過激な活動家だったイルダの影響を ゲバラは大きく受けたという。 ゲバラが運動に身を投じて わずか1年あまり後、カストロらと共に、 メキシコから船に乗ってキューバに上陸、 革命戦争が始まったのだ。 そしてそれから2年あまりで 大統領のバティスタが国外に脱出し、 革命は勝利した。 ゲバラにとっては、運動に参加して わずか3年あまりで革命というものが 成し遂げらたことになる。 一方カストロにとっては、 反政府運動を始めた大学入学から数えると、 革命成功まで足かけ14年の歳月がかかっている。 しかもその間、逮捕されて1年半刑務所 (15年の刑が恩赦で1年半に)に入っていた他、 命を何度も狙われては逃れ、亡命し、 ぎりぎりの政治的駆け引きを繰り返していた。 当初、メキシコからカストロと 船にのって上陸した同志は81人、 待ち受けた政府軍との銃撃などで死亡、 逮捕されて、同志はすぐに20人以下になった。 革命が成功したのは、 バティスタ政権の腐敗から 革命の機が熟していたこと、 またキューバ国内で反体制の活動家として すでにカストロの名は知れ渡っており、 彼がゼネストや蜂起を呼びかけると、 それに呼応して各地で反体制の運動が 連動して起きたことが上げられるだろう。 カストロにとっては、 14年の歳月をかけた戦いの末の勝利で、 しかも祖国だからこそ成功した革命だった。 ロマンチストの左翼青年という側面を 持っていたゲバラにとってはどうだったのだろう。 ゲバラにとっては、祖国ではない国の革命に参加した。 命をかけた壮絶な日々だったのは疑いないが、 それ以上に、理想に人々が共鳴して運動がふくれあがり、 最後には熱狂で迎えられるという革命の成功体験は、 何ものにも代えがたい時間だったのではあるまいか。 そのプロセスを通して、 ゲバラの漠然とした理想が 確信に変わったとしても不思議ではない。 ふたりはそれから6年あまりで、袂を分かつ。 きっかけは、ソ連への対応をめぐってだ。 キューバ危機で、キューバを守るためだと 言いながら自らの国益しか考えてなかった ソ連指導部に幻滅しながらも、 カストロはそれを利用し、 ソ連からさらなる援助を引き出すことに成功、 ソ連への傾斜を強めていく。 アメリカの経済封鎖によって 経済が落ち込んでいくなか、 国民を食べさせ政権を維持するには、 ソ連に頼るほか道はなかったのだ。 ところがゲバラはこれに納得せず、 ソ連を批判し続ける。 次第にゲバラはカストロ政権のなかで孤立していく。 1965年2月に開かれた アジア・アフリカ経済会議で、 ソ連も「帝国主義的搾取の共犯者であると 結論づけざるを得ない」と非難、 ソ連がカストロに抗議する事態となった。 帰国したゲバラをカストロは空港まで迎えに行き、 そのまま別荘に籠もって40時間議論を続けた。 しかし結局、対立は埋まらなかった。 ゲバラにしてみれば、カストロは 現実に振り回され革命の純粋な理想を 失ってしまったと見えたのだろう。 しばらくしてゲバラは消息不明となり、 カストロに別れの手紙を送る。 手紙には、キューバでの全ての地位を捨て、 市民としての権利をも放棄すると 決別の意志を示したうえで、 過去にカストロに抱いていた思いを述べる。 「自らをとがめるとしたら、 当初、君のことをあまり信用していなかったことや、 指導者として、そして革命家としての 君の資質を見抜けなかったことくだらいだ」 さらに今後の決意をこう記していた。 「この世界の他の土地で、 私のささやかな努力が求められている。 キューバの指導者として責任があるために 君には許されないことが、私にはできる。 別れのときが来たのだ」 後に『世界の他の土地』の最初の場所は、 アフリカのコンゴだったことがわかる。 ゲバラは1965年4月、 変装してコンゴに入りゲリラ戦に参加する。 コンゴは当時内戦状態で、 ゲバラはコンゴでゲリラを集め 養成するのが目的だったという。 南米の国であれば理解できる。 だがなぜコンゴだったのか。 ソ連に気を配るカストロと合意の上で、 アフリカにもうひとつのベトナムをつくることを 目指したのだという。 ところがコンゴでのゲリラ活動は さしたる成果も上げることはできなかった。 そんな中、ゲバラにとって 予想していなかった出来事が起きる。 カストロが、ゲバラの最後の手紙を公開したのだ。 ゲバラはカストロに、 必要なら手紙を公開しても構わないが、 亡くなってからにして欲しいと頼んでいたという。 ゲバラと行動を共にしていた ダリエル・アラルコン・ラミレス、 ゲリラ名ベニグノはこう証言している。 「ゲバラはひどく動転していました。 そして我々を見て言いました。 手紙を公開するということは、 私にキューバの政治から消えろということだ。 それをはっきり宣言したということだ。 私はもうキューバで何もできない。 もはや私のキューバではないのだ」 なぜ手紙を公開したのか。 カストロは後にインタビューに答えて、 はっきりとこう話している。 「ゲバラの性格を考えると、 公開すればキューバには戻れないでしょう。 ですが政治的に、必要だったのです」 ゲバラは、彼を必要とする 最後の『世界の他の土地』をボリビアに定めた。 ボリビアは、ペルー、チリ、アルゼンチン、 パラグアイ、ブラジルと国境を接する 地理的には南米の中心に位置する国で、 ここで近隣諸国から来る兵士を養成し、 革命を南米に広げていこうという試みだった。 ところが活動を共にするはずだった ボリビア共産党書記長のマリオ・モンヘは、 ゲバラに協力しようとしなかった。 マリオ・モンへは証言している。 「ゲバラはアフリカを去って、 新たな道を見つけなければならなかったのです。 ゲバラは私に言いました。 私は決してキューバに帰れない、 キューバに別れを告げた。 カムバックする場所を見つけなければならないのだが、 ボリビアは格好の場所に見える。 すでに革命の準備が出来ているからだ。 そしてゲバラは私に言いました。 だから、この革命のリーダーの座を あなたにあげるわけにはいきません、 絶対に、と」 ソ連の言いなりだったとされる マリオ・モンへの証言がどこまで正しいかは はっきりしないが 共産党の協力を得られなかったゲバラは、 農民に希望を見いだそうとした。 ゲバラは、論文の中で 独裁国家を破壊する方法を述べている。 武力闘争だけでなく、人民軍を作ることが必要であり、 農民は自らの社会的地位を考えれば 当然これに参加しようとすると、ゲバラは考えた。 ボリビアでキューバ革命を再現しようとしたのだ。 ところが、 そのころ行われた農地改革の恩恵にあずかった 農民もいた上に、異国から来たゲリラ部隊に わざわざついてくる農民は居なかった。 キューバ革命の成功体験は、 ゲバラの理想主義を より押し進めたのではないだろうか。 カストロならば、異国の地で革命が成功するなど 思いもしなかったに違いない。 ゲバラは、孤立し焦りを深めていく。 行動を共にしていたゲリラ兵のベニグノは言う。 「ゲバラはボリビア共産党が 自分を見捨てたことを知っていました。 とにかく仲間を増やすために、 鉱山で働く人々を、どういう人かも知らないのに ゲリラ活動に入るよう説得していました。 自分がボリビア共産党のリーダーから 同意をもらっていないことは言わず、 夢だけを語っていました。おしまいには、 精神的におかしい人まで 採用し始めるほどでした」 追いつめられたゲバラは、 ほんのわずかの同士と共にジャングルをさまよい、 仲間にも裏切られ捕えられる。 1967年10月9日、 CIA とボリビア軍によって殺害される。 ゲバラを前に震え上がった兵士に向かって 「引き金をひけ。恐れるな。撃て」と ゲバラは挑発したという。 殺害後、指紋をとるためゲバラは両腕を切断される。 遺体が見つかったのは、 それから30年ほどがたった1997年のことだった。 キューバがボリビアの許可を得て発掘を開始、 ゲバラら同志6人の遺骨が発見された。 ゲバラは帰国の道を絶たれたキューバに、 亡くなって30年たって ようやく帰ることになったのだ。 革命を共に戦いながら、 『世界の他の土地』で39歳で殺害されたゲバラと、 革命後もキューバの最高権力者の座を 79歳になっても守り続けているカストロ。 ゲバラは死後、 よりカストロに貢献している。 ゲバラはカストロ政権に革命のロマンの香りを与え、 薄れ行く革命精神を 市民に想起させる役割を担っている。 今のキューバ人たちは 彼らをどう見ているのだろうか。 40代の男性は言う。 「チェ(チェ・ゲバラ)は我々の手本です。 チェの存在はフィデル(フィデル・カストロ)に とって脅威となり、その結果 チェがキューバを追い出されたという説を 唱える人がいますが、私はそうは思いません。 ふたりはまったく別の人間性を持つ 優れた人なのです」 さらに60歳の女性は言う。 「フィデルとチェを比べることはできません。 チェは理想に生きた人です。フィデルは 決してチェのイメージを政治的に利用してはいません。 フィデルはそんなことする必要もありません。 フィデルは彼自身のカリスマ性を 持っているからです」 30歳という比較的若い世代の男性は言った。 「チェは私にとってはヒーローではありません。 しかし彼はこの世界の貧しい人々を助けるという、 自らの理想に従って生きました。 チェはインターナショナリストで、 フィデルはナショナリストです。 彼らはまったく違う人間です」 そう言って彼は続けた。 「フィデルはチェを利用しました。 フィデルは政治家ですからね。 権力を維持するためには、 誰でも何でも、利用するのです」 ゲバラの死後40年となる再来年、 キューバでは大きな記念行事が予定されているという。 |
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2005-08-16-TUE
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