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<ほぼ日読者のみなさまへ>
ジダンの旅ようやく完結です。
43分間のジダン(4)
自分の席にたどり着くと、
そこには中年の男性が座っていた。
声をかけチケットを見せる。
男は薄暗い中で目をこらし、
確かにおまえもこの席だという顔をして首を傾げた。
男も自分のチケットを僕に見せる。
8列目の87という同じ席番が記されている。
もしかしたらダブルブッキングかもしれない。
おおらかなこの国ならばあっても不思議じゃない。
そう思ったとき男は僕の顔を見て
勝ち誇ったようににやっと笑った。
「おまえは2階席だ」
おそらくそう言ったのだろう。
振り返って2階の方を大きく指さしたからだ。
成り行きを見ていた隣の別の客も、
ご丁寧に僕のチケットをのぞき込んみ、
同じように2階の方を2度指さした。
チケットを確認する。一番下に
『1 ANFIT』
と書いてある。
これが階数の表示なのか。
イギリスではファーストフロアが
2階を意味するのと似たようなものかもしれない。
だいたい、こんないい席なわけないよな。
僕は舞い上がった自分をかすかにあざけりながら、
とぼとぼと上への階段を目指した。
一度外に出て薄暗い階段を見つけ、
ゆっくり一段づつ確かめながら2階にたどり着いた。
チケットを見せては席の方向を指さしてもらうという、
その日数え切れないほど行った作業をもう一度繰り返し、
なんとかまた8列目の87番にたどり着いた。
すると、また人が座っているではないか・・。
若い女性が菓子をほおばりながら
グランドの方を眺めている。
今度は何だ。
まさか3階席を指されるんじゃないだろうな。
見上げると3階は建果てしなく遠い。
僕はちょっとうんざりしながら、
思い切ってチケットを見せた。
彼女は菓子を飲み込んだ。
来たんじゃあしょうがないわねえ。
そんな顔を僕に向け、
彼女はおもむろに立ち上がってすたすたと歩いていった。
やれやれ。
僕はゆっくりと腰かけた。
もう誰にも邪魔されない。
どこにでもあるプラスティックの小さな堅い椅子だったが、
この時ばかりは何ものにも代え難い
自分の居場所のように思えた。
悪くない席だ。
サッカー専用スタジアムだから、
2階と言っても日本の感覚より
はるかに近くて見やすかった。
さあ、あとは始まるだけだ。
時計を見ると、9時37分。
試合開始時間はとっくに過ぎていた。
ふうっと息をついてあたりを見渡す。
席を探すのに精一杯で、回りを見る余裕もなかったのだ。
そこは1階よりさらに無秩序な世界だった。
観客たちは大きな袋から
ひまわりの種のような細かい粒をつかんでは頬張り、
噛んでは吐き出す。
それが足下に積もり、
ビールの缶や紙くずなどもあちこちに散乱していた。
人々は試合が一向に始まる気配のない事態にいらいらし、
暗闇に向かって口々に何か叫んでいる。
そのときだった。
メインスタンド側、
つまり僕の席の頭上のライトが一斉に灯った。
破れるような大歓声。
グランドが初めてはっきりと見えた。
スーツを着たおそらく大会関係者と
レフェリーが集まって顔をつきあわせ、
記者やカメラマンたちがその回りを囲んでいた。
彼らも突然の灯りにまぶしそうに顔を上げた。
続いてバックスタンド側のライトも灯り、
スタジアムのすべての照明が息を吹き返した。
再び大歓声。
試合が始まることを確信した5万5千人の叫びだった。
3分ほどして選手たちが入ってくる。
これほどの歓声は聞いたことがない。
暗闇から解放された喜びが、
かえってベティスサポーターの
士気をあげたのかもしれなかった。
レアル・マドリッドの選手たちは
黒のユニフォームで登場した。
彼らにとってきょうはアウェーの試合。
しょうがないのだが、やはり落ち着かない。
彼らはやはり純白のユニフォームがよく似合う。
白こそリアル・マドリッドの象徴だった。
ジダンの姿を探す。
ひょろっとしてゆったりと体を動かすジダンは
遠くからでもすぐにわかった。
背中に5番をつけている。
10番のフィーゴ、3番のロベルト・カルロス、
7番のラウルの姿も見える。
ベストメンバーだ。
3日後にもチャンピオンズリーグの
大事な試合を控えている中で、
何人かの中心選手を温存するのではと
半ば覚悟していたため、
ジダンの姿にまずほっとし、
他の主力選手の背番号にワクワクした気分になった。
9時45分。
ホイッスルが鳴る。
歓声と共にスタジアムは緑一色になる。
緑と白の縞のタオルを観客たちが
一斉にぐるぐる回し始めた。
サポーターの脅迫にも似た声援に後押しされてか、
試合は序盤からベティスのペースで進んだ。
ベティス選手たちのあたりは激しく、
レアル・マドリッドは中盤でパスをつなげない。
早め早めのタックルですぐにボールを奪われてしまう。
だが時にリアル・マドリらしい攻撃も見られた。
ロベルト・カルロスの左足の
ロングシュートがゴールをかすめる。
フィーゴが右サイドを駆け上がり大きくセンタリング。
やはりロベルト・カルロスが
局面を変える、左から右への超ロングパス。
ジダンとロベルト・カルロスの芸術的なワンツー。
僕は気がつくとすぐにジダンの姿を追っていた。
「チームメイトですらジダンのプレーにほれぼれして、
試合中に足が止まってしまう」その感覚を
少しでも共有したいと思っていた。
だがその日のジダンの動きは、重かった。
不用意なパスを出して簡単にカットされるという、
普段のジダンではあまりない場面がなんどか見られた。
チームで一番激しいマークを受けているためもあるだろう。
だがそればかりではないように思えた。
何か体調に問題があるのかもしれない。
ジダンが機能しないレアル・マドリッドは
歯車がいまひとつかみ合わないチームになっていた。
さらにベティスの右からの攻撃が激しいために、
ロベルト・カルロスが守備に追われ
なかなかあがっていけない。
自然とフィーゴへのパスが多くなり、
攻撃は右からのセンタリング頼みになっていく。
その単調さを見透かすように
ベティスの守備がフィーゴを待ち受ける。
フィーゴはフェイントをかけ抜こうとするが
あっさり捕られてしまう。
次の場面では見事に抜いて駆け上がりセンタリング。
だが中央に誰もいない。
ボールはむなしく逆サイドに転がっていく。
ベティスは猛攻撃をかける。
必ずしも効果的なボール回しではなかったが、
勢いは明らかにホームのチームにあった。
前半の34分に試合は動いた。
レアル・マドリッドのバックスが
味方につなごうとしたパスを、
ベティスのカピという選手がカットし、
そのま正面に切り込んでシュート。
ボールは鮮やかにゴールネットを揺らした。
「ウォー」地響きのような歓声がスタジアムを震わせる。
観客は総立ちになり緑のタオルを力任せに振り回す。
一斉に舞った紙吹雪で、グランドが一瞬見えなくなる。
ベティスの選手は抱きあい、
レアル・マドリッドのバックスは呆然と寝転がっている。
ジダンは天を仰いでいた。
ベティスの攻撃はやまなかった。
レアル・マドリッドとしては
このまま前半を、0−1のまま凌ぎ、
体制を立て直して後半に臨むのが無難だ。
レアル・マドリッドには
局面を変えられる選手が何人もいるのだ。
僕はジダン演じた決定的な場面を思いおこしていた。
2002年5月15日のチャンピオンズリーグ決勝。
クラブチームのヨーロッパナンバワンを決める大会だ。
レアル・マドリッドは
攻撃的なドイツのチーム、レバークーゼンと対戦。
1対1で迎えた前半45分のことだった。
ロベルト・カルロスが左サイドからあげた浮き球を
ジダンが左足で合わせて決めた。
見事なボレーシュートだった。
その場面を観たあと不思議な感覚が残った。
それはボレーシュートのあまりの完璧さ故にではなかった。
一瞬時間が止まったような錯覚にとらわれたのだ。
ロベルト・カルロスの左足を離れたボールはふわりと浮き、
ペナルティーエリア内に居るジダンの方に
吸い寄せられるように放物線を描いた。
まるで赤ちゃんを撫でるような
やさしいゆったりした曲線だった。
ジダンはその場でゆっくりと構える。
前と後ろにはバックスがひとりずつ居たが、
虚をつかれたのかほとんど動けない。
時間が止まる。
皆が立ちつくす中、
ボールだけがスローモーションのように落下し、
ジダンが左足を振り抜く。
ボールはカーブしながらゴールの左上に突き刺さる。
時が戻り、一瞬にして大歓声に変わる。
それは人の手の届かない領域のように思えた。
見事なシュートはいくらでもある。
だがそれとはまったく異質な出来事のように
感じられたのだ。
まるでみな魔法にかかって動けない中で、
ジダンとボールだけが時を刻んでいるようだった。
ワールドカップの前に水沼貴史と食事をしているとき、
そのジダンのボレーシュートが話題になった。
「マラドーナと対戦したことのある韓国の選手が言ってた。
マラドーナのドリブルは決して早いわけじゃない。
なのに不思議と抜かれてしまうんだ、とね」
水沼はわずかに冗談っぽく、しかしまじめな顔で続けた。
「ホントの超一流選手の回りには
ぽっかりと近づけない空間が出来るのかなあ。
何か、あるんだろうね」
確かに何かがあるのかもしれない。
選ばれし者にしか見えない何かが。
そんなことを考えながらグランドに目をやると、
相変わらずベティスの攻撃が続いている。
時計をみると残り時間はあと2分余り。
ロスタイムがあるにせよ、前半はもう終わりだ。
それでも緑と白のユニフォームの選手は、
レアル・マドリッドのゴールに執拗に迫っていた。
その時だった。
ヒューンという音がして再びすべての照明が落ちた。
ウオーという怒声があがる。
光に溢れた世界から一転して闇の世界。
全く何も見えない。
選手たちは大丈夫だろうか。
全速力で走っている時に
突然すべての光が失われる状況を想像するといい。
かなりの恐怖と危険を感じるはずだ。
スタジアム内が騒然となる。
漆黒の闇の中でカメラのフラッシュがたかれる。
灯りを少しでも供給しようという親切心からか、
どうせならこの珍事を撮っておこうという好奇心からか、
まぶしいほどのフラッシュが観客席のあちこちで続く。
そのたびグランドの上を一瞬だけ映し出し、
選手たちがゆっくりとグランドから立ち去る姿を
かすかながら、
まるでコマ落としのように見せてくれた。
近くで補助灯がつく。
立ち上がって腕を振り上げて怒っている人もいれば、
呆然と座り込んだままあきらめた顔をしている人もいる。
さすがのスペインでも
こんな事はそうそうあるわけではないのだろう。
しょうがない。
待つとするか。
僕はつい最近見たスポーツニュースを思い出していた。
確かJリーグ清水VS市原の試合だった。
落雷のため停電でキックオフが遅れ、
試合中にも停電のため中断。
だが再開して最後までやった。
こちらも復旧するはずだ。
気長に待つとするか。
僕は座り込んで目をつぶった。
なぜか激しい疲れを感じていた。
回りでは相変わらず怒声が飛び交い、
通路を若者たちが闊歩していた。
しばらくしてスペイン語で館内放送が流れる。
観客たちは比較的静かに聞いていたが、
終わった途端に人々が帰り支度を始めた。
まさか。
隣のおじさんの方を向くと首を大きく振って言った。
「ノーゲーム。ノーゲーム」
今度は僕が怒る番だった。ノーゲームって何だ。
これで終わりってことか。
なんてことだ。
僕はこのゲームを観るために日本から来たのに・・・。
かっかしている僕をよそに、
あれほど興奮していたはずの地元のサポーターたちは
拍子抜けするほどあきらめがよかった。
ということはリードしていた地元ベティスの
勝ちとなったのだろうか。
いやそんなはずはない。
おそらく再試合なのだろう。
決着が持ち越されたとはいえ、
ベティスがリードしている状況は
ファンにとっては悪くないということなのだろうか。
いや、もしかしたら。
彼らはきょうのチケットで
再試合を観られるという何らかの保証が
さっきの館内放送に含まれていたのかもしれない。
でも僕が、来られるはずもない。
僕は階段を降り、
補助灯を頼りに一階席の前方に歩いていった。
せめてグランドを近くで感じておこうと思ったのだ。
グランドを覗き込んだが
相変わらず薄暗くてほとんど見えなかった。
どこまで写るかあてもなかったが、
フラッシュをたいて写真を3枚撮った。
そばで別の日本人がグランドをバックに
憮然とした顔をして記念写真を撮っていた。
近くに20代の係員が立っていた。
この世代ならば英語が少しでも通じるかもしれない。
「試合はどうなったの」と僕は訊ねた。
「ノー、ノー」と係員は言う。
「再試合はいつ?」
「ノー、ノー」と繰り返すばかりだ。
「あしたとかあさってとかに再試合はないですよね」
と僕は念を押した。
そんなことあり得ないと思いながら、
自分のスケジュール中にと最後の望みを託したのだ。
相手は明らかに困惑した顔をしていた。
英語が通じないことがわかっていながら、
気がつくと僕は続けていた。
「払い戻しはないのですか」
僕の言葉にやや怒気が含まれていたのだろう。
「ノー、イングリッシュ」と
係員はかすかに声を荒げてきっぱりと繰り返した。
「ノー、イングリッシュ」
僕はあきらめてスタジアムの外に出た。
涼しい風が吹いていた。
マイクを持ったリポーターが
カメラクルーと走り回っている。
観客の怒った声でも狙っているのだろう。
僕がてくてくと歩いていくのを見つけると
リポーターが小走りで近づいてきた。
後ろからカメラマンも追いかけてくる。
アジアから来てこんな目に遭った観客なら
さぞいい音が撮れるとふんだのだろう。
その通りだったが、ひとつだけ難点があった。
「スパニッシュ?」女性リポーターが僕に訊ねた。
こんどは僕が言う番だった。
「ノー、スパニッシュ」
リポーターは手のひらを返したように、
あっそうという顔をして次の獲物を探しに行った。
こうして僕のジダンを観る旅は終わった。
わずか43分間。
しかもこの日のジダンは精彩を欠いた。
ただそれでもひとつだけ
僕の目に焼き付いたプレーがあった。
大きな弧を描いて飛んできたボールを
ジダンがトラップして自分の斜め前に出し、
相手を抜いてドリブルに持ち込んだのだ。
決して派手なプレーではない。
だがトラップでボールの勢いをきちんと殺すことだけでも
高い技術が必要なのに、
トラップの段階ですでに相手を抜いているのだ。
周りがすべて見えているとしか思えないような動きを、
いとも簡単にこなしていた。
「チームメイトがほれぼれして足が止まってしまう」のは
必ずしも見事なゴールや、得点に結びつく
鮮やかなスルーパスだけではないのかもしれない。
こうした一見地味なプレーの中にこそ
ジダンの質の高さが潜んでいるのかもしれなかった。
また観に来よう。
歩きながら僕は思った。
振り変えるとスタジアムは暗闇に沈んでいた。
(終わり)

『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円
「言い残したことがあるような気がして
口を開こうとした瞬間、
エレベーターがゆっくりと閉まった」
「勝ち続けている時は、自分の隣を
神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」
余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)
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