『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
ほぼにちは。
きょうは誰もが知ってるヒーローです。


イチロー

5年ほど前からノートを持ち歩いている。
ちょっとしたアイディアや思いつきを書き込んだり、
本を読み映画を観たあと好きな言い回しを残したり、
心に響いた誰かの言葉を写しておいたりする。
小さな字で気負ってびっしり書き込んだかと思えば、
一週間何も書かないこともある。
気まぐれな、何でも帳だ。

すでに何冊にもなっているそのノートをふと開いてみる。
ページを繰るにつれてぼんやり見えてくるものがある。
その時々の精神状態だけでなく、
自分がどんなものに惹かれている人間かということだ。
気が付くと、ノートへの登場回数が最も多いのは
イチローの言葉だった。

先週大リーグのオールスターに出たイチロー選手だ。
まだイチローが今より体もひとまわり小さかったころから、
インタビュー記事やテレビでの彼の言葉は
私にノートを開かせた。
いつか会えれば訊いてみたいことは山ほどあった。
(まさか一緒に放送をしていた仲間が
 イチロー夫人になるとは夢にも思わなかったが・・。
 彼女は結婚前までニュースの森で
 スポーツキャスターをやっていたが、
 スタッフも誰一人つきあっていることすら知らなかった)

イチローの言葉は常に、
彼が今見ている風景を見てみたいと思わせるものだった。
最も言葉にしにくい領域を彼は意識下に置こうとし、
肉体と精神の深い井戸を
どんどん掘り進もうとしてるかのように思えた。

たとえば、彼のインタビューの中で
最も印象に残っているもののひとつは次のようなものだ。
大好きな番組であるテレビ朝日の『ゲット・スポーツ』で
99年のシーズンを振り返ってのインタビューだったと思う。
インタビュアーがいまの課題を
聞いたのに対してイチローはこう答えたのだ。

「ひとつだけ言いましょう。
 スピードボールが自慢のピッチャーの球の中で、
 インサイドの高めが一番打ちにくいボールなんですよ。
 それは(ストライクではなくて)ボールですよ。
 ボール球です。それを『変化球を待ちながら』
 どう打てるかというのはやってみたいんですよ」
最初に聞いたときには
何を意味するのかよくわからなかった。
そのときイチローが何を
目指していたのかはっきりはしないが、
なんどか反芻して自分なりに解釈をした。

まず最も打ちにくい内角高めの球。しかもボール球。
普通なら打つ必要もない。
それを『変化球を待ちながら』どう打てるかを
やってみたいというのだ。
打者は変化球に的を絞った場合、
ストレートが来るとど真ん中でも
振り遅れて打てないケースが多いという。
それなのに最も打ちにくいコースの
スピードボールを打とうとしているのだ。

イチローは『意識の領域』と『体が反応する領域』に
分けてバッティングを語ることが多い。
変化球を待つ、
つまりヤマをはるというのは『意識の領域』だろう。
それに対して期せずして来た内角高めの
直球ボール球に手を出すのは『体が反応する領域』だ。
ある程度は駆け引きでヤマを張るのはもちろんだが、
イチローは体がどう反応するかをより重視する。
ヤマが外れても、ボールという物体を目でとらえ
脳に信号を送って体を動かし、
バットがボールをとらえることに集中するのだ。

それでは変化球を待ちながら内角高めのストーレートを
打ちたいとはどういうことなのか。イチローは、
最も打ちにくい状況でどれだけ体が反応できるかを
探ることで、『体が反応する領域』の限界を
見極めたかったのではないだろうか。
最も打ちにくい状況で体が反応できれば、
どんなコース、どんな球でも反応できる。
たとえボール球に手が出てしまった場合にも空振りせず、
ファールで逃げることもできるのだ。

イチローのような問題設定をおそらく他の選手はしない。
練習でのバットのワンスイングにも意味を持たせ、
新しい扉を開けようとしているのだ。

ノートを手繰りイチローの言葉を読み直す。
ところどころに書いてある他の
スポーツ選手の言葉も目に入るのだが、
イチローの言葉はとびきり哲学的な色彩を帯びる。
私はふとスケートの清水宏保をダブらせてしまう。

去年3月のことだ。
私は清水宏保の試合が見たくて長野に出かけた。
長野オリンピックを現地で取材して以来、
私は清水のすべりをなんどか真近で見た。
その前の大会で清水は得意の500メートルのカーブで
珍しく転倒、右足を痛めた。
その時の彼の言葉がひどく印象に残っていた。 

世界新記録を狙える高速リンクでの大会で敗北したのだ。
ところが清水はことさらショックを受けてはいなかった。
「転倒は、氷を捉えすぎたために起きたのです。
 限界のスピードが出ているところでは、
 ミスをする確率も高くシビアになる。
 悪い転び方ではない。それどころかいい方向の転び方だ。
 世界記録はいつでも出せる。そのプロセスが大事だ。
 今の自分がどのエリアに入っているのかを知りたかった」
清水は平然と言ってのけた。

99年4月11日。
西武戦でボテボテのセカンドゴロにたおれたイチローは、
一塁を駆け抜けたとき
飛び上がりたくなるほどの喜びを感じる。
小松成美のインタビューにそう答えている。
アウトになったのになぜうれしかったのか。
それは探し求めていた『ある感覚』を
その瞬間に見つけたからだという。
イメージどおりにバットを振ったつもりでも、
かすかなズレが生じてしまう。
その狂いを瞬間的に調整する体の使い方が
初めてわかったからだという。
彼は野球選手として生まれ変わったとまで言い、
バッティングに絶対的な自信がつき
二度と迷うことはないと断言する。

イチローも清水も
自分だけの『ある感覚』を求め続けている。
その時々の結果よりも、
自分の理想とするイメージを追い求めているのだ。
日本では50%の能力しか
発揮していなかったというイチロー。
大リーグという新しい世界は、
憧れから目標、そして現実に変わった。
オールスターに出ることも首位打者をとることも、
我々から見ると信じられないほど凄いことに違いない。
だがおそらくイチローにとってはただの通過点に過ぎない。
自分のバッティングの完成を目指す旅の途上なのだ。

人はどこまで行けるのか。
求道者たちが極限で見る風景を
これからも感じていきたいと思う。






『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-07-17-TUE

TANUKI
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