|
<ほぼ日読者の皆様へ>
たくさんのお見舞いメールありがとうございました。
しみじみとした気持ちで読ませていただきました。
この場を借りてお礼申し上げます。
本当にありがとうございます。
体はまだ本調子とはいかないのですが、
ぼちぼちやっていきます。
きょうはひとりのヴァイオリニストの
半生です。
盲目のヴァイオリニスト
人生は偶然の連続なのか、
それともすべては運命なのか。
「もしあの時・・」
誰しもふと立ち止まってこう思う瞬間があるだろう。
だがヴァイオリニストの
川畠成道(かわばたなりみち)ほど、
「もし」に彩られた過去を持つ芸術家も
少ないだろう。
川畠は1971年生まれ。
デビューアルバムは10万枚を売り上げた。
クラッシック界では大ヒットだ。
コンサートも常に満席。
私が行った今年1月のリサイタルの日、
東京は大雪だった。
カーテンを開けた途端に
家を出るのも嫌になるほどの積雪だったが、
客足を止めることはなかった。
白い息を吐きながらファンたちは会場に列をなした。
コンサートが終わっても
女性ファンはなかなか帰ろうとしない。
川畠が2枚目のアルバムの発売を記念して
サイン会を開いたからだ。
ロビーはファンたちでごったがえし、
人の波が幾重にもできた。
私は川畠に挨拶しようと思っていたが、
あきらめたほどだった。
ファンたちは口々に言う。
「川畠さんのヴァイオリンの音色は心に沁みる」
「これほど透明感のある音は聴いたことがない」と。
聴いている時、彼女たちは目を閉じ、
祈り、時に涙する。
「川畠の音は何かが違う」
彼女たちが共通に持っている思いだ。
川畠成道は8歳の時に祖父母に連れられて
初めてのアメリカ旅行に出かけた。
そこで一錠の風邪薬を飲んだことが
彼の人生を変える。
薬の副作用で生死の境をさまよったのだ。
「高熱が続き、体中の皮膚がむけ爪もはがれ、
全身に血が染み出していました。
本当に成道なのだろうかと見ていられませんでした。
空気に触れるもの痛いといった具合でした」
母親の麗子は変わり果てた息子を
最初に見たときのことを
今でも覚えている。
生存率は5%。医師にそう告げられた。
だが麗子は息子が死ぬなど考えられなかった。
絶対によくなる。
若き医師たちも5%の可能性にかけてくれた。
川畠も当時のことをはっきりと記憶している。
「全身血だらけの状態で、
紙のシーツに寝かせれていたのですが、
それが体にくっつくんです。
それをはがすときの痛さ。
また水ぶくれが破裂するたびに
悲鳴をあげるほどだったのを覚えています」
時間がたつにつれて回復に向かった。
だがそれと引きかえに、川畠は視力を失っていった。
帰国して東京で治療を続けた。
週に3日も4日も病院に通い
満足に学校に行くことすらできない。
そんな日々が2年間続いた。
父の正雄は考えた。この子が将来独り立ちするために
何か手に職をつけさせなければならない。
母の麗子は思った。病院通いだけの日々の中で、
この子に何でもいい、
目標のある時間を過ごさせてあげたい。
父が出した結論は、ヴァイオリンだった。
一時は将棋も考えたがいい先生が見つからない。
正雄がヴァイオリンの教師だったこともあり、
自分で教えられるという思いもあった。
ヴァイオリンを子供たちに持たせると、
川畠だけは最初から体に吸い付くように
自然に持てたことも正雄の気持ちを後押しした。
川畠は男ばかり3人兄弟の長男。
父は2人の弟を呼んで座らせて言った。
「これからは成道に手がかかる。
おまえたちは、あとは自分でやってくれよ」
弟たちも状況を察していたため静かに頷いたという。
だが両親は兄にかかりっきり、
思春期を迎えていく弟たちにも
様々な思いがあっただろう。
ふたりの弟はその後早くに自立して
家を出ることになる。
本格的にヴァイオリンを習わせる場合、
3歳か4歳の頃から始めさせるケースが多い。
川畠はすでに10歳になっていた。
人よりもはるかに遅いスタート。
しかも目が見えないというハンディキャップも
背負っていた。そして将来を考えても、
オーケストラの一員にはなれない。
指揮者のタクトが見えないからだ。
プロの演奏家になるだけでも難しいのに、
川畠には最初からソロでの活動しか選択はなかった。
ヴァイオリンを始めた当時は、
まだかすかになら目が見える状態だった。
両親は模造紙に拡大した譜面を書いていった。
模造紙を壁に貼る。
川畠は顔を模造紙にくっつけるようにして
譜面を読んだ。
模造紙一枚に一小節。一曲で100枚を超えた。
部屋は模造紙で埋め尽くされていった。
練習は毎日続いた。
一日6時間から8時間、休みの日は10時間を超えた。
「きのう出来なかったことが
きょうは出来るようになる。
ちょっとした光のようなものを
ヴァイオリンは与えてくれたんです。
母と私はきょうはこれが弾けるようになったという
小さな喜びで生きていたんです」
川畠は当時を淡々と語った。
だが遊びたい盛りだ。
好きで始めたわけでもないヴァイオリンに、
なぜそこまで打ち込めたのだろうか。
「みんな外で遊んでいるのになぜ自分だけ、
と思ったこともありました。
でも生まれつきの性格なんでしょうね。
途中で投げ出すのが嫌なんです。
やりたくなくて朝から何もしないでいても、
2、3時間後にはいつの間にか
またヴァイオリンを持っているんです。
人に負けるのはほとんど気にならない。
でも自分自身でどこまで出来るとわかっているのに、
そこまでいかないと気持ちが悪い性格なんです」
視力は次第に失われ、高校に入る頃には
模造紙の大きな譜面すら見えなくなった。
それならば耳で覚えるしかない。
一音、一音を父親に出してもらったり、
レコードを何度も聴いて覚えていった。
普通は楽譜を見ながら
練習し少しづつ暗譜していくが、
川畠の場合はまず暗譜してから練習が始まった。
幸運だったのは絶対音感があったことだ。
父がヴァイオリンの教師、母も音楽を好んだため、
幼い頃から音楽は家庭に欠かせないものだった。
知らないうちに音楽が
体に忍び込んでいったのだろう。
絶対音感のおかげで
耳だけで覚える方法も彼には可能だった。
そのやり方は今も変わりはない。
母親がピアノで音を出し
川畠が曲を覚えていく光景を見ながら、
私はなぜか乙武洋匡を思い起していた。
大ベストセラーとなった『五体不満足』を
書いた乙武といえば説明の必要はないだろう。
彼が2作目に書いた『乙武レポート』という本は、
ニュース番組のサブキャスターを努めた日々を
記したものだった。
一緒に仕事をした仲間のひとりとして
私もその本に何度か登場した。
驚いたのは彼の文章だった。
普段の取材活動で乙武はメモをとらない。
というよりとれない。
彼は自分の記憶を文章にしていく。
それはハンディキャップとも言えるが、
もしかしたらそれが
乙武洋匡の文章たらしめているものの
ひとつかもしれないと思ったのだ。
メモを見ながら文章を書く。
当たり前とも言えるその行為をしないぶんだけ、
すべては心を通過した言葉となるのではないか。
より人の心に届く文章になるのではないか。
そんな風に思ったのだ。
川畠が楽譜を読まず、まず音を記憶して演奏する。
演奏家としてはハンディキャップに違いないが、
そのプロセスを通して
すべては川畠の心を通った音になるのではないか。
透明感、人の心に届く音色は、
こうしたことと少なからず
関係があるのではないだろうか。
「自分ではわからないですね」
川畠はしばらく考えてから口を開いた。
「でも視力のことは
自分のアイデンティティでもあるわけですし、
私の音楽に反映されている部分も当然あると思います。
今の状況では避けて通れないですから。
聴衆の方にはそういうところも伝わるのでしょう」
川畠にも眠れない日々があった。
高校を卒業する頃から
なぜ自分はヴァイオリンをするのか、
将来どうなってしまうのか、
疑問と不安が心の中で入り乱れた。
父の正雄は言う。
「なぜヴァイオリンをやらなきゃいけないの。
病気さえしなければヴァイオリンをせずにすんだんだ。
成道がこんなふうに言ったのを覚えています」
「それでもどうして
やりつづけることが出来たんでしょう」
私は川畠に訊ねた。
「どうしてなんでしょうね・・・」川畠はじっと考えた。
「しいて言えば、それが自分の境遇なら、
受け入れて、そのなかでベストを尽くそうと
思っていたのかもしれません」
私はさらに訊ねてみた。
「もしあの時、
アメリカで一錠の薬を飲んでいなければと
思ったことはありますか」
「あのとき薬を飲んでいなかったら・・・」
川畠は静かに繰り返した。
「もちろん、あります」
「もし、お父さんが
ヴァイオリンをやっていなかったらと思ったことは?」
「絶対、私もヴァイオリンをやってはいないでしょうね」
川畠は微笑んだ。
「そう考えると、いろいろな『もし』がありますね」
「ほんとうに。もし、と言い始めたら、
想像の世界になってしまいますね。
別の世界のことのようだ」
「すべては音楽をするために運命付けられたもの?」
「最近では運命かなと思う気持ちになってきました。
あのとき薬を飲み、いまこうしてここにいる。
そういう運命でそういう風にしか
ならなかったように思えます」
川畠と話をしながら、
私は『受容の精神』というべきものを強く感じていた。
もろん川畠も数え切れない葛藤を経てここまできた。
川畠の言葉でいう「いろいろな自分がいますから」
というのが正直な思いだろう。
だが、予想もしない災難や置かれた境遇を
『受容』していく精神性が
彼を作り上げてきた
大きな要素のひとつではないだろうか。
97年の6月。
川畠はイギリスの王立音楽院を主席で卒業。
翌年からプロのヴァイオリニストとして
スタートを切った。その後はリサイタルを開き、
CDを着実に発表している。
今でも練習時間は子供の頃と同じだ。
1日6時間から8時間。休みの日は10時間に及ぶ。
そんな日々がもう20年以上続いているのだ。
「将来の夢はなんですか?」私は訊ねた。
「こういうところでリサイタルをやってみたいとか、
誰とやってみたいとか、そういうのはないですね。
今まで通り与えられた状況の中でベストを尽くす。
その結果として10年後、
20年後に自分がどうなっていいるか。
とても楽しみです」
川畠はかすかに息を継ぎ続けた。
「ただそれはあくまで結果なので、
そのときの自分を素直に受け入れていきたいと
思っています」
「音楽家としても、人間としても、
自分を受け入れていくと?」
私は訊ねた。
「そうです。今や、ヴァイオリンと私は
コインの裏表のように
別の顔をもったひとつのものなのです」
川畠はゆったりとした口調で続けた。
「すべてを受け入れていきたいということです」
|