『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
キャパへの旅の4回目です。
「まだ終わらないのか」とお思いの方も
いらっしゃるかと思いますが、
まだ続きます。
もう少しおつきあいください。

初めての方のために前回までの
おさらいをしますと、
「ロバート・キャパは40歳の時
 ベトナムで地雷を踏んで死亡した。
 40歳になった私は、ふとキャパの死亡した場所を訊ね、
 彼が最後に見た風景を見よう思い立ち、ハノイに飛んだ。
 ベトナムはその日くしくも独立記念日のお祭りだった。
 キャパの亡くなった場所を探すため詳しい地図を探したが
 ベトナムにはそんなもの存在しなかった。
 東京でもほとんど手がかりはなかった。
 キャパと行動を共にした記者の記事と
 キャパが最後に撮影した写真を頼りに歩き回るしかない。
 ベトナムで暮らす画家の安藤彩英子さんが
 通訳をかってでてくれた。
 そして、出発の日が来た」
というような内容でした。
それでは続きを。


キャパが最後に見た風景(4)

ホテルのロビーに現れた安藤は、
ベトナム風の白いシャツにグレーのパンツという
軽快な出で立ちだった。
ノースリーブのシャツには
赤い花の刺繍が縫い付けてあり、
手には小さな花束があった。 
「おはよう。いよいよね」
安藤がちょっと眠そうな笑顔で言った。
出発の日の朝9時に
私の泊まっているホテルのロビーで待ち合わせたのだ。

「その花は?」私は訊ねた。
「だって、キャパが亡くなった場所を訪ねるんでしょ。
 お花くらい手向けてあげなくちゃ」
安藤が当然というふうに言った。
花束は片手で持てる、ほどよい大きさで、
赤と白の小さなバラが30本ほど束ねてあった。
植物の広い葉でくるんで紐で結ばれていた。
「ありがとう。考えもしなかった」私が言った。
安藤は照れたような笑顔で返した。
ロビーには、
一日つきあってくれることになる運転手も来ていた。
握手をして互いに自己紹介する。
若くて感じのよい青年だった。 

心配なことがふたつあった。
ひとつは天気だった。外に出ると、
わずかに曇っていたがなんとか持ちそうだった。
白い乗用車に乗り込み出発する。
もうひとつの心配もじきになくなった。運転だった。
ハノイに入った日に受けた洗礼が
一日続くことを恐れていたのだが、
この日の運転手はほんとうに礼儀正しい青年だった。
もちろんクラクションは鳴らし続け、
遅いバイクを蹴散らすように進んだ。
それでも今度は落ち着いて乗っていられた。
なんのことはない。
もしかしたら私がベトナムの流儀に
慣れてきただけかもしれなかった。

ハノイの街を抜けて一号線に入る。
最大の都市ホーチミンまで続くベトナムの背骨だ。
きれいに舗装された片側2車線のひろびろとした道路で、
ひどくすいていたため
どの車もかなりのスピードを出していた。
一号線を左にはずれナムディンへ向かう道に入った。
とたんに道は狭くなったが、
それでもきちんと舗装された走りやすい道だった。
両側には田園地帯が広がり、
右手にはまっすぐに線路が伸びていた。
ナムディンまで続いているとのことだった。

道沿いには小さな木造の商店が点在していた。
フォーというベトナムの麺を食べさせる店、
ビアホイという看板のかかったビアホール、
バイクを修理する店、
なかには犬の肉を食べさせる店もあった。
安藤に聞くと珍しくはないという。

自転車で野菜や果物を運ぶ女性たちの姿が目につく。
みな一様に笠をかぶっていた。
「あれとっても便利なのよ。
 女性の敵である日差しも遮れるし、
 頭に密着させずのせてるだけだから夏でも涼しいし、
 雨が降ると傘の代わりにもなる。すぐれものなのよ」
安藤が教えてくれる。

遠くに、小さな城のように見える建造物が
密集している場所がある。
水田地帯の中のあちこちに見える。
「あれはお墓。田舎ではああした形が普通みたい」
外を見ては「あれなに」と声を上げる私に
安藤は面倒がらずに
観光ガイドの役割も果たしてくれていた。
「その街路樹はユーカリの木」安藤は指差して言った。
「ユーカリの木は育つのが早いから
 戦争で爆撃を受けた後でも便利だったのよ」
「そうそう」と彼女は続けた。
「けさ、日本の両親にメールをうっておいたの。
 キャパの死んだ場所を探る
 調査隊として出かけてくるって。
 帰ったら結果も報告しなきゃ。
 見つかるあてもない調査隊よね」
安藤の言葉につられて笑いながら外に目をやると、
雨がパラパラと降ってきた。
ワイパーのキュッキュッという音がリズムを奏でる。
空を見あげるといつの間にか黒い雲が広がっていた。

有料道路の料金所に入る。7千ドン。
日本円にして50円か60円ほどだ。
この有料道路を過ぎると、
ナムディンの街に入るはずだ。

最後の日にキャパと一緒だったジョン・メクリンの
記事には幾つかの地名が出てくる。
何よりの手がかりだ。
その日、彼らはフランス連合軍と行動を共にした。
メクリンの記事と
リチャード・ウィーランが著したのキャパの伝記の
記述を合わせて要約するとこんな具合になる。
キャパが死亡した日の記録だ。
「キャパが参加した作戦は、
 <ナムディン>から<タイビン>への道に沿って
 20マイル東にある2つの要塞を引き払い
 破壊するものだった。
 そして5月25日朝7時、<ナムディン>のはずれで
 紅河の渡し舟を待っていたキャパが
 『これは素晴らしい記事になりそうだ』と言った」

「機動部隊2千人の兵士と2百台の車両、
 そしてキャパたちも河を渡った。
 一隊は最初の目的地である<ドアイタン>に向かって進んだ。
 キャパは、砲火の中でも平然と仕事を続ける
 農民たちの姿を撮った。
 部隊はトラックが地雷に触れて死亡者が出るなどして
 何度も立ち止まることを余儀なくされた」

「9時から10時の間に<ドンキトン>の要塞に到着。
 ゲリラが道を切断し修復に時間がかるため
 指揮官がジャーナリストをランチに招いたが、
 キャパは姿をみせず写真を撮り続けた。
 そのあとキャパはトラックの陰で昼寝をする」

「午後2時25分頃、
 彼らは<ドアイタン>の要塞に到着した。
 部隊は動き始めたが再び立ち止まる。
 <ドアイタン>から一キロほど離れた場所で、
 最後の目的地である<タンネ>の3キロ手前だった。
 道は水田から3フィートから4フィートの高さで、
 右側を流れる小川の堤防をかねていた。
 50ヤードあまり先で道は左に曲がり、
 小川に沿った堤とV字形を作っていた」

運命の時が近づいていく。

「あらゆる方向から爆撃音がした。
 他のジャーナリストは動くには危険と判断したが、
 キャパはひとりで動き始めた。
 彼は慎重ではあったが、
 危険を冒さなければいい写真が撮れないとなると、
 平気で危険を冒すのだ。
 キャパは道が左に曲がっているところまで行き、
 道と右に流れていく小川の堤防との間に
 はさまれた安全な三角地帯に下りた。
 キャパはそこで兵士の写真をとり、
 なだらかな傾斜の堤防をあがろうとしたときに
 地雷を踏んだ」

「仲間が次にキャパを見たとき、
 キャパは仰向けに倒れてまだ息をしていた。
 左足は完全に吹き飛ばされ胸がざっくりとえぐれていた。
 左手に一台のカメラを握り、
 もう一台は爆風で吹き飛ばされていた。
 名前を呼ばれたキャパは、かすかに唇を動かしたが、
 声にはならなかった」
そしてキャパは死んだ。

<>をつけたのが地名、もしくは要塞の名前だ。
たよりない地図に載っていたのは
ナムディンという地名だけだった。
出発前に手に入れたアメリカ軍のかなり詳細な地図にも
やはりナムディンしか載っていなかった。
1970年に作られた地図だった。
今のものと比べてみても
道路の配置など基本的な地形はほぼ同じで、
この30年だけとってみると大きな変化はないようだった。

メクリンの記事に出てくる要塞の名称は地名ではなく、
フランス連合軍の間だけで使っていた呼び名と
いう可能性も十分あるし、
さらにこれらの要塞跡が残っているかどうか
はなはだ心もとなかった。
あとは地元の人々の記憶に頼るしか手はなさそうだった。

ナムディンに入った途端に人通りが多くなった。
バイクやスクーターが道を占拠しなかなか前に進めなくなる。
両脇には大きな店が軒を連ねていた。
想像していたよりも大きな街だった。
雨はいつの間にかあがっていた。
ナムディンのはずれの船着場の近くにある雑貨屋で
ミネラルウォーターを買った。
容赦ない日差しの中では水分補給は欠かせないため、
午後のための何本かを確保した。

店で聞いてみることにした。
<ドンキトン><ドアイタン><タンネ>という地名、
あるいは要塞跡はあるかどうか。
もしあるならばどう行けばいいのだろうか。
店の夫婦は首を横に振った。

我々の様子を見て、
通りすがりの人たち10人ほどが集まってきた。
何が知りたいのかと話し掛けてくる。
説明を聞いた後は、それぞれが競うように話している。
何か知っているに違いない。
「なんて言ってる?何か知ってる?」
私がせかすように訊ねると、安藤はあきれたように言った。
「俺は知らないけど他の人は知ってるかもしれないとか、
 変わった地名だとか、それはどこにあるんだろうとか、
 聞いたことないとか、まあ要するに
 知らないってことをいろいろな言い方で話しているの。
 後から輪に入ってきた人には、
 もう一度最初から説明してあげたりしてるのね」

「ずいぶん親切なんだね」私は言った。
「いつもよ。皆優しい顔しないで優しいのよ。
 なんか喧嘩してるみたいな話し方だけど、
 人と話すのが好きなのね。それに暇じゃないですか。
 誰かが何かやっていると野次馬根性で集まってきて、
 ああだこうだ言うのね」
安藤はいたずらっぽく笑った。
地元の人の記憶に頼るあまり、
のちに言葉に振り回されることになる。

その場を立ち去ろうとした時だった。
ひとりの中年の男が言った。
「ドイタインという場所ならあるよ。
河を渡って4キロから5キロくらい行ったところだ。
河を渡って聞くとわかるよ」
<ドアイタン>とは少し違ったが、
何か関係があるかもしれない。
その時は大事な情報のように思えた。
 
紅河の水は確かに赤かった。くすんだ紅色だった。
渡し舟は人間だけでなく、
自転車、オートバイから乗用車、大型トラックまで
仲良く一緒だった。
安藤と私は車を降りて歩いて乗船した。
船が出てしまうんじゃないかと
私が慌てて飛び乗ったのに対し、
安藤は悠然と乗り込んだ。
「ああ、空気がおいしい」安藤が大きく息を吸う。
かすかに車酔いに苦しめられていた彼女は
解放されたように大きく手を広げた。

船がゆっくりと動き始めた。
離れ行く川岸を見渡すと
子供たちが赤い水の中を泳いでいた。
再び雨だ。赤い川面に雨粒が無数の小さな波紋を広げていた。
空を見上げるとまたも分厚い雲が覆っている。
「大丈夫」と言って
安藤が対岸の空を指さす。
そこには青空が広がっていた。

舞うようなかぼそい雨を浴びながら
渡し舟がゆっくりと水の上を滑っていく。
広大な紅河。見渡すかぎりどこまでも赤かった。
そこでは時間がゆったりと流れていた。

キャパは50年近く前にまさにこの場所で渡し舟に乗り、
帰りの便に乗ることはなかった。
兵士2千人が渡ったそのときの光景は、
今とは異なりあわただしいものだったに違いない。
渡し舟は何度も往復しただろう。
キャパが紅河を前に話した「素晴らしい記事になりそうだ」
という言葉からも、戦場に向かう緊張感と高揚感に
包まれていたことが感じられる。

そんな歴史など関係ない日常の風景が今の紅河にはあった。
皆生きるためにこの河を渡っていた。
河の向こうに死を見ている人など誰一人いなかった。

船はゆっくりと対岸に滑り込んだ。


<続く>

2001-05-08-TUE

TANUKI
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