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| 『ぼくは見ておこう』 松原耕二の、 ライフ・ライブラリー。 |
| <ほぼ日読者の皆様へ> 写真家、ロバート・キャパの物語の2回目です。 さきにみなさんに謝らなくてはなりません。 前回の文章の中で、 キャパがピュリツアー賞をもらったと 書いておりましたが、 完全に私の思い違いでした。 読者の方の指摘で気づきました。 いやあ、ずっとそう思い込んでいました。 あれほどの写真家なら もらっているはずだという 思い込みだったのかもしれません。 キャパが大好きだと公言しているだけに なんとも恥ずかしく、 軽いショックでもあります。 トホホ・・。 本当にどうも失礼いたしました。 現在「ロバート・キャパ賞」という賞があるのですが、 あれほどの仕事をしながら 生涯、賞というものに縁がなかったキャパが、 死後、がんばった人に賞をあげる方に回った。 これもまたカッコいいなあと、 自分のミスを棚にあげて 新たな発見をしたりしています。 なんだか調子よくてすみません。 気を取り直して 第二回目に入りましょう。 初めての方のために前回までのストーリーを おさらいしますと、 「キャパは40歳の時ベトナムで地雷を踏んで死亡した。 40歳になった私は、ふとキャパの死亡した場所を訊ね、 彼が最後に見た風景を見よう思い立ち、ハノイに飛んだ。 空港から車に乗ると、交通ルールもないような荒い運転。 悲鳴をあげそうになりながらハノイの街に入った。 するとそこでは、あちこちで国旗がはためき、 ひどく華やいだ雰囲気だった。 その日は、くしくも独立記念日だったのだ」 というようなお話しでした。 それでは、続きです。 キャパが最後に見た風景(2) 豪華な白亜のオペラハウスの前にしつらえた 野外ステージの周りには、大勢の人だかりができていた。 ハノイのほぼ中心、官庁街の近くだった。 ステージの前にはゲスト用の折りたたみ椅子が並べられ、 だだっ広い道路を隔てた歩道が庶民の特等席だった。 地面に座り込む子供連れの家族やカップル、 女性だけのグループなどが、所狭しと場所を確保していた。 彼らの前にはロープが張られ、 濃い緑色の制服に身を包んだ警官たちが 数メートルおきに直立していた。 ものものしい警備など気にする様子もなく、 皆、お菓子を食べたり大声でおしゃべりをして 催しが始まるのを待っていた。 あたりには大きな照明がいくつもたかれ 昼間のような光に満ちていた。 空から眺めたらその一角だけが浮かび上がり 別世界のように見えただろう。 「今夜9時から花火があるんですって」 安藤彩英子が微笑む。 彼女はハノイ在住の32歳の画家だ。 元スチュワーデスで 今はベトナムの伝統的な漆画を描いて暮らしている。 短めの髪にごく薄い化粧、黒のTシャツにジーンズ姿。 ハノイの街に溶け込んだ透明感のある笑顔をみせた。 彼女は東京で知り合った友人だった。 私の初めてのベトナム訪問を歓迎してくれていた。 日本人にとって独立記念日は居心地のいい日ではない。 55年前のこの日、 東京湾に浮かぶ船艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印。 日本に植民地化されていたベトナムは、 この日をもって独立記念日としたのだ。 時計を見るとまだ午後7時前だった。 地図が欲しいという私の希望から、 安藤が裏手の本屋に案内してくれた。 「でも期待しないでね。 ベトナムで詳しい地図というものを見たことがないの。 軍は持ってるかもしれないけど 少なくとも市場には出回ってないみたい」 ハノイ市内の地図なら 日本から持ってきたガイドブックでも 間に合いそうだったが、 キャパが亡くなった場所を探すには、 郊外の詳細な地図が必要だった。 彼女は流暢なベトナム語で説明してくれたが、 出てきたものはどれも大雑把な地図ばかりだった。 特に国境沿いはほとんど白紙の状態で 何の情報も記されていなかった。 欲しいのはハノイの南南東の街、 ナムデインやタイビン付近の出来るだけ詳しい地図だった。 「やはりないようね」 安藤が申し訳なさそうにつぶやいた。 店の親父は早く決めてくれと目で催促している。 結局、表にハノイの市街地が描かれ、 裏に郊外に走る道路網が載っている地図を買うことにした。 ないよりはましという程度のものだった。 キャパはどこで死亡したのか。 地雷を踏む直前、キャパが人生最後に撮った写真がある。 フランス軍兵士たちが荒地を移動している風景を うしろから写したものだ。 その有名な一枚の中にキャパ自らが死亡した場所が 写っていると信じる人も居るが、 なにせ半世紀近く前の風景だ。 今も同じような地形が残されているとは限らない。 それどころかその可能性は極めて低いように思えた。 行こうと決めたのは、 辿り着ける自信があったからではなかった。 ただ、当然すでにだれかが訪ねているだろうし、 うまくいけば現在のその場所のVTRや写真が あるかもしれない。そうタカをくくっていた。 出発前に東京でできるだけ情報を集めることにした。 キャパの写真集や書籍、 雑誌の特集号はほとんど持っていたが、 そこには幾つかの手がかりがあるだけで、 明確な証拠を示しているものは見あたらなかった。 ロバート・キャパは、1947年、 アンリ・カルティエ・ブレッソンと一緒に マグナムというカメラマン集団を設立する。 やりたい仕事を自ら企画するとともに、 著作権など雑誌側が持っていた権利を カメラマンの手に取り戻そうという運動だった。 マグナムは今も世界の一流の写真家たちが所属し、 パリ、ニューヨーク、ロンドン、東京の 4つの都市に拠点が置かれている。 マグナムなら何か手がかりがあるかもしれない。 そう思って事情を話して相談に乗ってもらうことにした。 約束の時間に訪ねると、 広々とした静かなオフィスで数人のスタッフが働いていた。 そのひとり小川潤子が私の対応をしてくれた。 キャパの死亡した場所を訪ねようと考えていること、 何か手がかりが欲しいこと、 その場所の現在の写真があればありがたい旨を手短に話した。 小川は少し困ったような顔をして言った。 「申し訳ありません。把握していないんです。 誰かが行ったという話も聞きませんし」 「世界中メデイアの誰かが訪ねていても 不思議ではないと思いますが」と私は訊ねた。 「そうですね、行っててもおかしくないですよね」 と彼女は言った。 「でも具体的には聞いたことありません。 ちょっと待ってください。そういえば イギリスのBBCがつくったドキュメンタリーの中に、 キャパが入った棺に敬礼をするシーンが映っていました。 いやでも、あれは確かベトナムでの映像だったけれど、 死亡した場所ではなかったわ」 彼女は考え込んだ。 「何か手がかりはないでしょうか」私は訊ねた。 「キャパが亡くなったときに 一緒に行動していた記者が書いた手記があります。 それは読みましたか?」 そう言って彼女は「戦争そのイメージ」 という写真集を出してきた。 その最後に掲載されている手記のページを開いて 私の顔を見る。 「ここです。ジョン・メクリンという記者の記事です。 最後の足取りを知るには一番詳しいと思います」 その通りだった。 私が探した範囲でもこれを超えるものはなかった。 「リチャード・ウィーランの描いたキャパの伝記の中にも、 最後の一日が描かれていますが、 ジョン・メクリンの記事をベースにしているようです。 その意味でもやはりこの記事が 最も参考になるのではないですか」 彼女は丁寧な口調でアドバイスしてくれた。 「このジョン・メクリンという記者は まだ生きているんですか」 私は最後の望みを託すように訊ねた。 「残念ながら亡くなったんじゃないでしょうか。 他に現場に居合わせた記者や兵士の中で 生きている人がいるかどうかはわかりません。 おそらく難しいでしょう。 もしかしたら当時の若い兵士などは いるかもしれませんが、探すのはちょっと・・」 「そうですね」と私が力なくつぶやくと 彼女は励ますように声を上げた。 「それと、やはり最後の日の写真でしょう」 彼女は立ち上がって戸棚の引出しを開け、 キャパが最後の日に撮った写真を持ってきてくれた。 鮮明なオリジナルだった。 順番に見ていくと、確かに足取りを 追っていける可能性がないわけではなかったが、 何よりも時間の流れが どれだけ風景を変えているかが問題だった。 どうしたものかと私が思いを巡らせていると、 小川はオリジナルを手にとって言った。 「本当にいまその場所はどうなっているんでしょうね。 私も見てみたいですね」 小川もキャパのファンだった。 彼女は日本の大学を卒業して ニューヨークの写真学校に入った。 キャパの死後、弟のコーネルが国際写真センターを設立。 そこに作られた学校に1年間通った。 小川はマグナム・ニューヨークに インターンとして出入りするようになり、 東京支社が設立される際に声をかけられたのだ。 キャパの人気はなぜか世界でも 日本が群を抜いて高いという。 「ジョン・メクリンの記事、 そして最後の写真が頼りですね。 帰ってこられたら 是非またお話しを聞かせてください」 と小川が言った。 いつのまにか、 彼女も私の酔狂な思いつきに加担してくれていた。 キャパが亡くなった場所にたどり着いたからといって、 たいした意味があるわけではない。 しかし彼が最後に見た風景を見てみたいという思いを 彼女も共有してくれていた。 少しでも鮮明な写真をと、 亡くなった日に撮影された一連の写真のオリジナルを 借りることにした。 A4サイズのこれらの写真を片手に 水田地帯を歩き回ることになるだろう。 そして最後はこの写真がよりどころになるかもしれない。 ふとそう思った。 「がんばってきてください」小川がにっこりと笑った。 私は背中を押されるような気持ちで事務所を後にした。 <続く> |
2001-04-24-TUE
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