『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
今回は、私が大好きな人をめぐってです。
ちょっと長くなりそうなので、
なんどかの連載にさせてください。
まさに「ぼくは見ておこう」という気持ちで
ある場所を訪れた時のストーリーです。



キャパが最後に見た風景(1)

どうしても行っておきたい場所があった。
人にはうまく説明できない。
しかし自分の中では、その土地を訪ねることで
何かに決着をつける必要があるように思えた。
しかもそれは「今」でなくてはならなかった。

写真家ロバート・キャパが亡くなった場所だ。
キャパは私のアイドルだった。
大学時代に、友人の勧めで「ちょっとピンぼけ」を読み、
彼の撮った写真を見てからというもの、
他の多くのキャパファンと同じように
あっという間に魅力にとりつかれた。

カメラを持って命がけで戦場を駆け抜け、
ピュリツアー賞まで手にする。
酒と女とギャンブルをこよなく愛し、
イングリッド・バーグマンもぞっこんになるほどの男。
それでいて写真は限りなく優しい。
おまけに彼自身が写ったポートレートが
これまたカッコいいのだ。

しかし最も惹かれたのは別のところにあった。
それはいわば自分を笑える精神とでも言うべきものだった。
キャパは戦争カメラマンで成功しながら
その立場に居心地の悪さを感じていた。
戦争がなくなることを祈りながらも
自分が輝けるのは戦場だけだという矛盾に苦しんでいた。
第二次大戦が終わったあと、
名刺に「ロバート・キャパ ただいま失業中」と
面白がって印刷していたのは有名な話だ。

結局彼は悩みながらも戦場に戻り、そして死亡する。
1954年5月25日の午後3時頃、
ベトナム・ハノイ南の田園地帯で地雷を踏んだのだ。
インドシナ戦争取材中の出来事。40歳だった。
数字が私の中に刻み込まれた。
40歳で迎える5月25日午後3時。
あれだけの仕事をキャパは40までにやり遂げたのだ。
自分もちゃんと生きなければ。
そうした思いがずっと
自分のペースメーカーになっていた。
40歳という年齢は大抵の男性にとって
ひとつの区切りだろう。
だが私にとっては
それだけではない別の意味があったのだ。

そして気がつくと自分もその歳になった。
そのときふと思った。ベトナムに行こうかと。
キャパが亡くなった40歳になった今、
その場所に立ってみようと。
彼が最後に見た風景を自分の目で見てみようと。
 

飛行機のタラップを降りると、
もわっとした熱気が頬に触れた。
ハノイだ。
そこは首都の玄関とは思えないほどこじんまりして、
地方都市の古びた空港といった趣だった。

イミグレーションに座る軍人のような係官が
社会主義国に来たことを思い起こさせる。
長いあいだ並ばされていろいろ聞かれ、
権威を誇示されるんだろうという先入観は
あっさりと裏切られた。
10分並んであっさり通過、
税関でもほとんどノーチェックだった。
ちょっとしたベトナムブームで
日本人旅行者が増えていることや、
外貨を稼ぐために観光客を
大事にしなくてはならない台所事情があるにせよ、
悪評が高かった時代とは
大きく様変わりしているようだった。

空港を一歩出たとたんに
様々な人が一斉に寄ってくる。
「タクシー」
「ホテルは決まってますか」
「両替できます」などと口々に言う。
タクシーの支払いは現地通貨の「ドン」が原則と
ガイドブックに書いてあったので、
まずは安全な両替所を探した。
看板は出ているのだが誰もいない。
覗いてみても業務がなされている気配はまるでない。
かといって紙幣を片手に言い寄ってくる
うさんくさそうな両替屋と取引する気にはならない。
どうしようとあたりを見回していたところ、
大きな看板にタクシー10ドルと書かれている。
聞くとハノイ市内ならどこでも同じ料金だと言う。
おそらく割高なんだろう思ったが、
ドルで乗れるならまあいいかと手を打った。
一刻も早くハノイの街に入りたかったのだ。

10ドルを手渡すと一枚のシールを胸に貼られた。
支払いが済んだ客という目印だった。
乗せられたのはタクシーというよりは
ピカピカの紺の乗用車で、25歳くらいの運転手が
うやうやしく扉をあけてくれた。
白いシャツに紺のズボン、短めの髪を
きちんと撫でつけた「礼儀正しい」青年だった。

と思ったのはここまでだった。
走り出すとその運転の荒さに
あやうく悲鳴をあげそうになった。
真っ直ぐな片側2車線の高速道路を走っているのは、
ほとんどがバイクとスクーターだった。
わが乗用車は2車線のうちの左を走り、
ひっきりなしにクラクションを鳴らしながら
バイクを右の車線に追い払う。
もう少し正確な言い回しをすれば、
わが礼儀正しき運転手は思いっきりハンドルの中心を
拳でたたきつけて最大音量でクラクションを鳴らし、
バイクを蹴散らしていったという感じだろうか。
後ろから追突するすれすれまであおるたびに、
私は神にも祈る気持ちで目を伏せた。
ところがバイクのほうも慣れたもので、
ぶつけるものならぶつけてみろと言わんばかりに、
全く動じずゆったりと右の車線に移動する。

しかし、これはまだましなほうだと
気づくのに時間はかからなかった。
少なくとも高速道路には、
対向車線との境はしっかりとあった。
ところが市街地の一般道に入ると、
そこにセンターラインというものは存在しなかった。
一応みな左側通行を守るのだが、
あおってもどかない勇猛なライダーがいると
平気で右に大きく膨らんで追い抜くことになる。

むろん向こうからも車は来る。
正面衝突まで間一髪のところで
左側に戻ってすれ違うのだが、あるとき
向こうからの車も間に合わないと思ったのだろう、
本来我が車が走っているはずの方に
大きく膨らんで避けたのだ。
つまりお互いに相手の走るべき側に入ってすれ違ったのだ。
間に立たされたバイクもこの時ばかりはあわててよけた。
なんてことだ。
ここにはルールというものはないのか。
運転手に大声をあげたが振り向きもしなかった。

やれやれと、私は思った。
街の中心に近づくにつれてバイクの量が増えてくる。
埃で前が見えなくなるほどだ。
皆、鼻を押さえたりマスクをしたりしている。
道路にびっしりとバイクがはりつき、
ほとんど動けなくなった。

「どこから来た」
初めてわが運転手が振り返った。
低い乾いた声だった。
「日本から」と答えると、彼はなまった英語で続けた。
「ベトナムは初めてか?」
「そうだ」
「何しに来た?」
「ただの旅行」
私の答えもそっけなかったが、
彼も別に聞きたくて聞いているわけではなかった。
あきらかに暇つぶしだった。

携帯電話がなった。
運転手がポケットから取り出したのは、
モトローラ社製の洗練されたデザインの携帯電話だった。
彼はこんな高い声も出せるんだと思わせるほど
華やいだ声をあげた。
電話の向こうから女性の声がかすかに漏れてくる。
バイクの大群を片手ハンドルでさばきながら、
彼はこのうえなくご機嫌になった。
今夜のデートの約束でも成立したのだろう。

外を見ると、家という家に赤い旗が立っている。
ベランダや玄関先ではためいている。
赤にオレンジの星が入った旗、ベトナムの国旗だ。
社会主義国であるベトナムでは日常の風景なのだろうか。  
「皆いつも国旗をたててるの?」
ようやく電話を終えた運転手に訊ねた。
彼ははずんだ声で返した。
「きょうは独立記念日。お祭りだ。
 僕も彼女と出かけるんだ」
そうか。独立記念日なんだ。
私は小さくつぶやいた。 

                <続く>







『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-04-17-TUE

TANUKI
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