『ぼくは見ておこう』
松原耕二の、
ライフ・ライブラリー。

<ほぼ日読者の皆様へ>
今年も、はや4分の1が終わりました。
そう思うとドキッとする歳になりました。
不思議です。
40歳になったとき、
残された時間をどう使おうかと考えました。
自分なりにやりたいことはあるのですが、
先のことは誰にもわかりません。
ジョナサン・ラーソンではありませんが、
「あるのは今日という日だけ」という気持ちで
日々を刻んでいくしかなさそうです。

きょうのコラムはこれまでと
ちょっと趣が異なるかもしれません。



父からの手紙

視聴者の方から手紙をいただくことがある。
内容は様々だ。
番組の中味、あるいは私のコメントに対する感想や批判。
スタジオで放送していると、カメラの向こうに何百万人、
時には千万人単位の人がいるという実感は湧きにくい。
ところが自分の一言に対して抗議電話が殺到したり、
お叱りの手紙をいただいたりすると、
テレビというメデイアは
いかに異なる意見を持つ大勢の人々が見ているか
思い知ることになる。

そうかと思えば、
結婚して欲しいという手紙が舞い込む。
もちろん本気ではないだろうが、
文面上は熱き思いが綴られている。
さらには、どなたか世話しましょうかという
ありがたい申し出もある。
そんなときはうっちゃっておくか、
何度もいただく場合には丁重にお断りするのだが、
そうすると「ずっと結婚できなくてもいいんですか」と
実に痛いところを衝かれたりする。

驚いたのは、自分はゲイだと名乗る人からの手紙だ。
封筒から妙な感じがしたのだが、
開けてみると男性の過激な写真が何枚も入っている。
そばにこんな言葉がついていた。
「おまえがゲイであることは、もうバレている。
 俺たちにはわかるのだ」と。
私はゲイに何の差別感情も抱いていないし、
性についてはそれぞれの嗜好の問題でもあるので
個人の自由だと思う。
しかし残念ながら私は女性しか知らない。
ご丁寧にもその人は続けて三度手紙をくれた。

怖いものもある。
これについては詳しくは述べないが、かなり怖い。

もちろんほっとする類のものもある。
よちよち歩きの子供が
なぜか私を気に入ってくれているといった手紙。
夕方には家族で見ていますと
全員の写真を添えてくださる御一家もいる。
あるいは様々な体験や思いを
丁寧に詳しく書き添えてくださる方、
真摯な感想を何度も直筆でくださる方の手紙は
思わず拝みたくなってしまう。
幸運にもこれらの比率が最も多い。
そんな手紙に目を通すたびに、
きちんと伝えなければと襟をただすことになる。


ところが去年の終わり頃から、
ちょっと趣の違う手紙が届くようになった。
先日出版した著書への感想だ。

はじめて自分の書いた本が
書店に並ぶのはうれしいものだ。
本屋に行くと妙に自意識過剰になる。
自分の本が並べられているのを何度も確認し、
遠くからじっと眺める。
誰か手にとってくれないだろうか。
ひとりの女性が立ちどまって見つめている。
が次の瞬間手をのばしたのは隣の本だった。

待つこと10分。
ついに中年の男性が私の本を手にとり、
ページをぱらぱらとめくっている。
ところどころ止まっては読む。
うしろの見開きの内側にある
私の小さな写真まで見ている。
よしよし、これだけの執拗さならば
おそらく買ってくれるに違いない。
そう思ったとき、
彼は本をもとの位置にもどし
何事もなかったように別のコーナーに移動した。

がっかりだ。
ふと我にかえると、こっそり眺めているのを
誰かに見られているのではと気恥ずかしくなり、
あたりをきょろきょろ見回している。
そんな自分がさらに恥ずかしくなる。

誰だか高名な作家が話していた。
自分の本が売れるところを
目撃したときはベストセラーだと。
言うまでもないが、私は一度も目撃しなかった。  

それでも出版して時間がたつにつれて、
読者から手紙が届くようになった。
読んでいただいたうえにこちらが恐縮するほど
丁寧な文章まで書いてくださっている。
そこには、感想にとどまらず、
胸に秘め続けたであろう様々な物語が
したためられていた。

「松原さんが転校を繰り返されたように、
 私も金融界で働く父について
 何回かの転校を経験しました」
という書き出しで始まる手紙があった。
私の父は銀行員だった。
子供のころ転校を繰り返した経験を
著書の中に記していた。
それを読んだ50歳の女性が
送ってくれた手紙だった。

「転校生だった子供は、
 長じて大人になっても
 物や人とのスタンスのとり方が変わらないと
 本を読んで改めて感じました。
 私自身、
 『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』
 方丈記を著した鴨長明に自分を重ね、
 いきがった時代もありましたが、
 転校というのは根源的な人間存在のせつなさを
 一気に知る体験だという気がしてなりません。
 環境が変わる緊張、
 出会いの楽しさ、
 好きだった友人、
 お気に入りの家、
 街の雰囲気そのすべてとの別れ、
 新しい場所に移動する。
 人とも物とも一期一会の厳然たる事実を
 知ってしまった子供たち」

そして手紙はこう続いた。 
「画面を通じて感ずる、松原さんのシャイな面、
 温かさ、人なつっこいけれど、
 人にまとわりつかないクールさの源は
 ここにあったのかと妙に納得した次第です」 
転校というものの持ちうる意味に
改めて気づかされるとともに、
私は心の奥底を見透かされたような気がした。

「人にまとわりつかないクールさ」
と言えば聞こえはいいのだが、
自分には冷たいところがあると思ってきた。
人への興味が強い一方で、
同時に人への執着もほとんどないのだ。
人へのすがりつくような思いと、
みな最後は離れ、すべては失われるという
確信にも近い諦念がコインの裏表のように共存していた。

もちろん転校はひとつの要因にすぎないだろう。
だが手紙をくださった50歳の女性も、
転校という経験がその後の人生に
少なからぬ影響を与えているのかもしれなかった。

私は自分の名前の由来についても著書の中で書いた。
なぜ長男なのに『耕二』なのか。
長年疑問に思ってきたその訳を知ったとき、
初めて父の人生を
具体的なものとしてイメージすることができた。
『耕二』という名前が父の人生を雄弁に語っていたのだ。

30歳代の女性から届いた手紙には
こんな内容がしたためられていた。
彼女の名前は『香名』。
その由来を彼女は父の葬儀で初めて知る。
クリスチャンだった父親は
旧約聖書に出てくる約束の地『カナン』を
娘の名前として託したのだ。
そして父も託された名前だった。
『カナン』にユダヤ人が大移動したときの
リーダーの名前から付けられていた。
3代にわたって和平への思いを託されていたのだ。

69歳になる男性は手紙の中で
こんな話を聞かせてくれた。
彼は次男なのに『太郎一』という名前だった。
なぜなんだろう。子供の頃からそう思い続けた。
兄である長男は『哲一』。
三男にあたる弟は『幸二郎』だった。
普通に考えると、まるで長男がふたりいて、
次男と続く名前になっていた。

ところが思わぬことが起きる。
長男の哲一が19歳のとき太平洋戦争で戦死するのだ。
残ったのが『太郎一』と『幸二郎』。
まるでそうなるとわかっていたかのような命名だった。

彼は名前の由来を父の死後に知る。
遺品を整理していたときだった。
父が剣道初段をとったときの免状が出てきた。
その免状の発行者名が『太郎一』。
剣道団体の会長の名前だった。

剣道を愛してやまなかった父が、
念願の最初の資格をとった時の喜びを
名前に託したのだろう。彼はそう考えている。
ずっと奇妙だと思ってきた『太郎一』という名前を、
いま彼はとても気に入っている。

いただいた感想の中に
「涙が止まらなかった」と記されている手紙があった。
30歳代の女性。
電車の中で涙が溢れて困ったと書いてくださっていた。
その手紙を読んでいくうちに
涙の深い意味がわかってきた。
手紙の後半には、彼女の生い立ちが描かれていたのだ。

著書の中で、私は父の暴力についてもふれた。
俗っぽい言い方をすれば
誰も好き好んで家庭の恥をさらしたくはない。
母が出版に難色を示した。
世間の目にふれたら
何を言われるかわからない、と言うのだ。
母の懸念ももっともだった。
家庭の問題を記した部分は本から除くべきか迷ったが、
母と話し合った末に結局出版した。

手紙をいただいた女性も、
子供のころから父親の暴力に悩まされていたのだ。
私の経験などなんでもないと思わせるほど、
彼女の若き日々は
悲しみと、恐怖と、深い疎外感におおわれていた。
精神的なダメージにもかかわらず、
いや、だからこそ父という存在は
彼女にとって逃れられないほど重いものであり続けた。
彼女は私の文章を読むことで、
封印しようとしていた自分の過去を
再び直視することになったのだ。

彼女の手紙だけではない。
自分と父親の問題を
率直に語った手紙を何通も手にした。
じつに様々な人が、父親とどう向き合うか悩み、
大人になってからも過去の日々に
折り合いをつけられずにいるのに驚かされた。

考えてみれば不思議な仕事だ。
文章を発表したことで誰かと何かを共有する。
私は自分の父親を書いたことで、
一度も会っていない人々の父親の物語をも
読ませてもらうことになったのだ。

私の父は、本を出版する1年ほど前に亡くなった。
もし生きていれば
父のつらかった日々や暴力について
書きはしなかったと思う。
亡くなったからこそ、
初めて父と正面から向き合い
書くことができたのかもしれない。
その結果、世に出た一冊の著書。
いただいた多くの手紙は、
私にとって父からの手紙のようにも思えるのだ。







『勝者もなく、敗者もなく』
著者:松原耕二
幻冬舎 2000年9月出版
本体価格:1500円


「言い残したことがあるような気がして
 口を開こうとした瞬間、
 エレベーターがゆっくりと閉まった」

「勝ち続けている時は、自分の隣を
 神様が一緒に歩いてくれてる、と感じるんです。
 ・・・たいていそういう頂点で負け始めるんです」


余韻を大切にした、9つの人間ノンフィクションですっ。
(ほぼ日編集部より)

2001-04-03-TUE

TANUKI
戻る