ヒウおじさんの鳥獣戯話。
さぁ、オトナたち、近くにおいで。

第11回

ことわざでは「蛙の子は蛙」という。
そりゃそうだと同意する人、あなたは正しい。
生物学の常識として、カエルがカエル以外を生むはずない。
いやおかしいと反論する人、あなたはもっと正しい。
カエルの子は誰もが知るとおりオタマジャクシだからだ。
しかし、なぜわざわざこんなことばが生まれたのだろう?
「犬の子は犬」でも「オットセイの子はオットセイ」でも
「クロコシジロウミツバメの子はクロコシジロウミツバメ」
でも、それこそどんな動物を持ってきても成り立つのだ。
それなのになにゆえカエルが抜擢されたのだろうか。
「蛙の子は蛙」を意訳すると「凡人の子は凡人」となる。
実は、蛙は凡人の象徴なのだ。

そう考え合わせたとき、「蛙の面に小便」は意味深である。
「どんなことをしても平気なさま」を表すことばなのだが、
凡人には小便を引っかけたって平気という、
傲慢な選民思想が隠されているのではなかろうか。
「蛙の面に小便」はセレブのおエラガタが一般ピープルに
対して優越感を抱くための文句だったのかもしれない。
ああ、やだやだ。
「井の中の蛙大海を知らず」という語も深読みしたくなる。
どだい凡人は狭い世界で生きていて気の毒だという、
鼻持ちならない上流意識がちらついている気がする。
「井の中の蛙」とはとるに足らない市井の人という意味?
ああ、やだやだ!

ことわざでは「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」という。
そりゃそうだと同意する人、あなたは間違っている。
獣道と違って、ヘビには通り道を決める習性はない。
いやおかしいと反論する人、あなたもまた間違っている。
ヘビなりに好きな通路はあって、道と呼べないこともない。
しかし、なぜわざわざこんなことばが生まれたのだろう?
「猫の道は猫」でも「ナマケモノの道はナマケモノ」でも
「オオチャイロハナムグリの道はオオチャイロハナムグリ」
でも、それこそどんな動物を持ってきても成り立つのだ。
それなのになにゆえヘビが起用されたのだろうか。
「蛇の道は蛇」は「同類の者はその社会に通じている」の意。
わかった、蛇は上流階級の人々の隠喩なのだ。

そう考え合わせるとき、「蛇の生殺し」はよく理解できる。
一般的には「殺しも生かしもしないで放っておくこと」だが、
これなどまさに、金も力も手に入れた支配層が
大衆をいたぶっている様子を的確に表している。
「蛇の生殺し」は一部の特権階級が多くの労働者たちを
管理する際の文句だったのかもしれない。
ああ、やだやだ。
「蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる」という語も悲哀を帯びる。
上層部のご機嫌をそこなわないように汲々とする
民衆の臆病な心情が透けて見える気がするのだが。
「朽ち縄」とは支配者にまとわりついてる太鼓持ちども?
ああ、やだやだ!

「蛇ににらまれた蛙」というフレーズも
ここまで考えてくると、その隠された意味は明らかである。
蛇(支配者階級)に脅しをかけられて身動きできない
蛙(一般労働者)をあざ笑うことばに違いあるまい。
しかし待て。
蛙は蛇ににらまれてばかりなのだろうか?
「窮鼠猫を噛む」ならぬ「窮蛙蛇を噛む」ことはないのか?
実はあるのだ!
奄美に生息しているオットンガエルが
ガラスヒヴァという蛇を脅して餌を奪い取った観察例がある。
この勇敢なカエルはときとして小型のハブさえも襲うという。
蛙だってやるときはやるのだ。


イラストレーション:石井聖岳
illustration © 2003 -2005 Kiyotaka Ishii

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2005-08-10-WED


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